天守閣から大阪湾を眺める。晴れた日には、明石海峡大橋もはっきりと見える素晴らしい眺望だ。眼下の庭園は庭園設計の第一人者重森三玲の作庭。三国志の諸★孔明の八陣を石組で表現しているという。

特集 泉州 岸和田

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だんじりが駆け抜ける岸和田藩の城下町

ド、ドン!腹の底に響く太鼓の音、にぎやかな囃子と「そーりゃ」、「そーりゃ」の掛け合いの声とともに、だんじりが町を駆け抜ける。岸和田城天守閣を仰ぐ「こなから坂」を一気に駆け上がり、猛然と曲がり角に突っ込んでいく。勇壮な「遣[や]り回し」に鈴なりの見物客がどよめく。

見物客は祭りの2日間で約60万人。岸和田市産業振興部観光課の中浜忠義さんによると「大きな経済効果です。が、それ以上にだんじりは岸和田の人々の生活のよりどころになっています」。「だんじりが全て」と公言する人が少なくない。城の近くで、江戸時代から続く老舗の和菓子店の主人、小山啓一さんも温和な人柄に反して、祭り時には矢も盾もたまらない。

 藩御用の御菓子司を務め、城下町の伝統の銘菓「梅花むらさめ」をつくる7代目主人は「ここではみんな、母親のお腹にいる時からだんじりの掛け合いの声と鳴物のお囃子を聞いて育ちます。だんじりは岸和田の遺伝子です」と、話はついついだんじり祭に及んでしまう。これが岸和田の生活にしみ込んだ気風なのだろうか。表通りに出ると白壁の天守閣が颯爽とそびえている。天守は昭和に再建されたものだが、本丸を囲む穴太積みの石垣は往時のままである。

1645(正保2)年に描かれた『岸和田城図』。多くの堀が廻らされた壮大な城郭で、1827(文政10)年に落雷で焼失するまでは五層の天守がそびえていた。城の西側(写真下部)は、大阪湾の海岸線がすぐ迫っている。(国立公文書館蔵)

岸和田城天守閣
江戸時代は五層の壮大な天守閣だったが落雷で焼失。現在の天守閣は再建された三層の模擬天守閣だが、それでも姿は十分に美しい。

紀州街道が通る本町
風情のある家並みが続き、城下町の商家地区の雰囲気を色濃く残している。

  天守閣に上れば、目の先に大阪湾、その向こうに明石海峡、六甲や北摂の山並みがくっきりと見渡せる。東には葛城山、南の和泉山脈の向こうは和歌山だ。南北朝の頃、強い勢力を誇っていた阿波国から、淡路、摂津、京へと上る交通の要の地だった。「岸和田」の文字が確認できる最も古い史料として、南北朝時代の岸和田氏が各所での合戦の功績を記した「軍忠状」がある。

南北朝時代にはすでに岸和田と呼ばれていたようだが、戦国期には、織田信長と対峙する石山本願寺に組する紀州の根来[ねごろ]衆や雑賀[さいか]衆を封じるために城が築かれ、歴史に残る「岸和田合戦」の激戦場となった。城に籠城する兵は5千人。紀州勢は2万とも3万ともいわれる大勢力で城に襲いかかり、あわや落城寸前の窮地に陥った。その時に思いもせぬ加勢が城を守った。

 南町の天性寺には、この合戦を描いた『聖地蔵尊縁起絵巻』が残っている。あわやの危機に不意に海から大蛸にまたがって、蛸の大軍を従えた法師が現れ出て敵を撃破したというのだ。法師は地蔵菩薩の化身で、以来、寺は「蛸地蔵」として親しまれて信仰を集め、岸和田の名所の一つになっている。その後紀州勢力の討伐の前線基地として五層の天守閣を備えた城が築かれた。

 そして徳川の時代、紀州藩へのお目付役として岡部宣勝公が入城し、今日の岸和田の礎となる本格的な城下の整備と町の配置を行う。以後、明治の 廃藩置県まで岡部家13代が岸和田藩を治めた。城を取り囲む旧城下町地区や旧紀州街道を歩けば、城下町特有の伝統的な家々の佇まいが今も残っている。だんじり祭の勇猛さとは対照的に実に静かで慎ましい町並みだが、祭りの日にはここを猛然とだんじりが駆け抜ける。

天性寺に残る『聖地蔵尊縁起絵巻』を丁寧に解説する住職の土井信演さん。大蛸にまたがった法師は地蔵菩薩の化身。蛸地蔵として親しまれているが、願をかけている時は蛸は一切口にできない。

『聖地蔵尊縁起絵巻』
絵巻のまさにハイライト。大きな蛸に乗った法師と無数の蛸が雑賀衆と戦って撃退しているシーン。

岸和田の銘菓「梅花むらさめ」。岡部公の献上菓子で、今では岸和田の人なら誰もが知る地元ブランド。

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