沿線点描【片町線】京橋駅から木津駅(大阪府・京都府)

大阪のヒガシの玄関口・京橋から、天平の古京を結んで走る。

片町線(学研都市線)は、大阪の東と京都の南部を結ぶ。京橋駅から木津駅まで約45キロメートル。約1時間の旅の終わりに「幻の古京」跡に佇んだ。

京橋駅の南側、企業や商業施設が集まる大阪ビジネスパーク。

濃厚な空気が漂う大阪の東のターミナル

 京橋は大阪城の「京橋口北」の「京橋」に由来する。京街道の出発点として古くからの交通の要所で、現在も大阪環状線、JR東西線が乗り入れている。そして片町線の起点駅であり、大阪ビジネスパークをひかえた駅界隈は大阪の東の繁華街だ。

 「キタの梅田ともミナミの難波や天王寺とも違う。ヒガシの京橋やね。大阪の下町の空気が濃厚なとこや、京橋ではなんでも安いで」。京橋で最も古いとされる新京橋商店街振興組合の理事長を務める合志[ごうし]利三さんがそう教えてくれた。

 商店街全体はかつての京街道だったそうだ。伏見の淀を経て京都に至る道で、幕末には大勢の勤王の志士がこの道を通って京・大坂を往来した。そんな歴史を思うと感慨深いが、それにしても商店街の店の「値段の安さ」に驚かされる。なにもかもが大衆的で、気取らないのが京橋たるゆえん。「ここは泥臭いとこ(店)のほうが流行るねん。オシャレなとこは案外しんどい」。そう話す合志さんの言葉に尽きるが、要するにそれは大衆、庶民の味方の町であるということである。

 そんな京橋から片町線に乗った。電車は大阪ビジネスパークのビル群を背に寝屋川を渡り、過密に密集する住宅街を走ると、数分で放出駅だ。難読駅で「はなてん」と読む。おおさか東線に乗り換えると関西本線とつながる。住道駅を過ぎると、右手の車窓に山上のアンテナ群が特徴の生駒の山並みが近くに見えてくる。屏風のように連なる生駒山は大阪と奈良の県境だ。

 その生駒の山並みの北端に向かって電車は走る。野崎駅は、年配者にはおなじみの「のざきまいり」の最寄り駅。昭和初期に「野崎参りは屋形船でまいろ どこを向いても菜の花ざかり」と謳われた野崎小唄は全国的に流行した。元禄時代から続く野崎観音詣りは、人形浄瑠璃や落語でも語られ、明治の頃までは屋形船で参詣したようだ。

かつて大坂と京都を結んでいた京街道にあたる新京橋商店街。

新京橋商店街振興組合理事の合志利三さんは、「人と人とのふれあいのある商店街にするため、さまざまなイベントを開催してます。なによりも、お客さんとのコミュニケーションが大事やからね」と話す。

 その頃は、見渡す限りの田園地帯で無数の水路が巡らされ、川舟が盛んに行き来していたという。のどかな風景、風情は様変わりしてしまっているが、境内から見晴らす北摂の山並みだけは今も変わらない。

「野崎の観音さん」で親しまれてきた慈眼寺。5月初頭の「のざきまいり」の期間中には参道に露店が並び、大勢の人で賑わう。

野崎観音の境内からは大阪市内を一望できる。かつては、参詣者は天満橋から発着する屋形船に乗って、行き来したという。

住道駅を過ぎると、住宅地の向こうに生駒山が見えてくる。

一休さんを訪ねた後は、「幻の古京」へ

 電車は四条畷[しじょうなわて]、河内磐船[かわちいわふね]と北河内平野を走る。車窓からは確認できないが、地図では淀川に並走していて、周辺は見渡す限りの住宅群。ほどなくして松井山手駅。すでに京都府に入り電車のドアの開閉も手動になる。ここを境に電車は南に進路を転じ、風景もこれまでとはがらりと変わる。

一休寺の方丈庭園。荒れ果てていた境内を一休禅師が再興し、没するまでの晩年をここで過ごした。境内には墓所もある。

「一休とんちロード」には、一休さんの生涯や逸話を記した電信柱が並んでいる。

 のどかで、たおやかな丘陵と田畑の風景が目を和ませてくれる。京田辺駅で下車し酬恩庵[しゅうおんあん]を訪ねた。というより「一休寺」として有名で、一休和尚が晩年を過ごした寺。酬恩庵までの道は「一休とんちロード」といい、電柱ごとに一休さんにまつわる話が記されている。

 必見は枯山水の禅庭園、そして「一休寺納豆」という名物もある。一休が作り、その後代々の住職に伝えられてきた。ネバネバの納豆とはずいぶん異なり、醤油で煮詰め天日干しした納豆の塩味はお茶漬けにもってこい。現在の住職が500年前の製法で自ら作っていて、土産物としても売られている。

一休寺の名物、一休寺納豆。中国伝来の製法を一休禅師が伝えたとされる。塩味のきいた保存食として珍重された。

京都府に入った列車は、宇治の山々を背景に走る。(大住駅から京田辺駅間)

1987年に国家プロジェクトとして本格的に整備が始まった関西文化学術研究都市。現在、立地施設は100を超える。

木津川市にある山城国分寺跡。恭仁宮廃都後、大極殿は山城国分寺の金堂として使用された。金堂周辺には七重塔が建っていたと伝えられ、現在も塔の礎石が残る。

 さて、車窓には宇治の山々が横たわり、電車は木津川の流れに沿って南下すると、再び難読駅、「ほうその」と読む祝園駅。関西文化学術研究都市の最寄り駅で、広大な丘陵地に先端技術の研究施設が点在する。片町線の愛称「学研都市線」は、この関西の知の拠点の愛称「けいはんな学研都市」に由来する。 

 東に木津川が流れ、旅もゴール間近だ。終着の木津川市もまた古代から交通の十字路。北は京都、南は奈良、西は大阪、東は伊勢。文化の十字路でもあったこの町には奈良時代の「幻の古京」跡がある。平城京の後、わずか5年間だけ遷都された「恭仁宮[くにのみや]」だ。

 宮跡は礎石を残すだけで地元でも知る人が少ないそうだが、かつてこの場所が日本の中心であったことは歴史が教えてくれる。気のせいか吹く風にも天平の香りがした。周囲の山々の景観も、おそらく天平時代の頃とそう変わっていないだろう。京橋から約1時間の短い旅だが、それは1300年の時空を超える旅でもあった。

当尾の石仏を巡って心を洗う

当尾地区には、あちらこちらにさまざまな表情の石仏や磨崖仏が残る。写真は「わらい仏」として親しまれる阿弥陀三尊磨崖仏。

 恭仁宮を訪ねたら、一足延ばして当尾の野仏の里を訪ねてみたい。「とおの」と読む当尾地区は木津川市東南部に位置し、奈良県に隣接する。ここは浄土信仰の聖地で、修行僧が隠遁し多くの塔頭が造られたことから「塔ノ尾」と呼ばれていたが、いつの頃からか「当尾」になった。

 周辺の小高い里山の谷のあちこちに、鎌倉時代から室町時代に彫られた磨崖や石仏が数多く残っていて「石仏の里」として知られる。散策には程よく、なんといっても穏やかな風景が心を癒してくれる。散策路は約3キロメートル、ゆっくり巡っても約2時間ほど。天平時代の高僧行基が創建したとされる岩船寺[がんせんじ]から、山中の散策路を辿って有名な浄瑠璃寺[じょうるりじ]までの山道を行くと、巨岩に彫られた三体地蔵、線彫りの弥勒磨崖仏、睨みを利かせた「一願不動」、笑顔が微笑ましい三体の「わらい仏」、薮の中の三尊磨崖仏などがあり、どの石仏も献花されていて今も里の人たちに大切にされている。石仏群の中でも圧巻なのは、浄瑠璃寺への道から少し逸れた大門仏谷[だいもんほとけだに]の磨崖仏。谷を隔ててもその姿が見える。谷を降り、間近に見ると縦横6メートルほどの巨大な花崗岩に如来型の大磨崖仏が彫られている。笑みをうっすら浮かべたお顔はなんとも慈悲深い。ぜひお薦めしたい散策路だ。

当尾の石仏の中でも最古最大である大門仏谷の磨崖仏。

当尾地区には、里山に抱かれて慎ましい集落が点在する。穏やかな風景が信仰心を育むのか、石仏には変わらず常に花が供えられ、道端には産物が置かれて売られている。

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