Blue Signal
January 2009 vol.122 
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特集[豊穣の地を育んだ水土の国への旅 岡山] 蒼海を美田に変えた光政の藩政と経世学
岡山藩を立て直した英才津田永忠の実学
現在に継承される美田と土木遺産
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芥子山から眺めた沖新田全景。中央の島影は児島半島。左に流れるのが吉井川、右側の斜めに細く光る水路が百間川。
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 永忠の人柄をうかがう逸話がある。閑谷に居を移していた永忠は凶作で飢餓に苦しむ多くの領民に、手習い所用に備蓄した米を粥にして振る舞いたいと藩に願い出て、各郡の手習い所で粥の炊き出しを行い、120日間、延べ60万人以上に粥を振る舞い続けたという。

 そんな永忠は再び藩財政改革に取りかかると、領民のために広大な農地を切り拓いた。吉井川流域は現在でも県を代表する穀倉地帯だが、東岸は大河の流域にもかかわらず、16世紀末まで農業用水はため池に頼るほかなかった。そこで吉井川の水を流域の新田に導くために3000m²にもなる田原井堰を建設する。6万3000個の巨石が使用されたが、用水を流すには吉井川の支流の川が遮ることとなる。この難問を、川の上を通水させる「石の懸樋」を設けることで解決したのである。

 開発したのは永忠が大坂から呼び寄せた旧知の石工集団だ。永忠は優秀な技術集団を従えて事業や工事を総指揮した。こうして田原井堰と用水路が完成し、流域の1000haが「田どころ、米どころ」に生まれ変わり、領民の暮らしは豊かになった。田の地割りは中国、周時代の地割租税制度とされる井田[せいでん]法を模した地区もある。これは条里制で区分された個々の田のほかに、互いに協力して年貢米を育てる田を併設した地割りである。

 吉井川と旭川を結ぶ長大な用水路である倉安川は干拓地への灌漑を目的とした人工水路だが、田舟も往来できるようにしている。その起点に設けられた倉安川吉井水門は、舟が往来するために水位を調整する閘門式水門で高度な設計理念と技術を要する。国内で現存する最古の閘門式の水門だといわれる貴重な遺産である。

 永忠が行った事業の中で特筆すべきは沖新田の干拓だ。吉井川と旭川に挟まれた広大な干潟を新田にするのは、不可能といわれた。干拓と埋め立ての違いは、埋め立ては土砂で少しずつ海を埋め立てるのに対し、干拓は海中に堤防を築いてから内側の海水を抜いたり干上がらせる。それゆえ土地は海水面や吉井川、旭川の水位より低くなる。井戸は掘れず、飲料や農作のための利水、それに排水が大きな課題となって立ちはだかった。

 大河の河口部にできた干潟に大規模な農地干拓を行うのは、常識を逸脱した構想であったともいえる。しかし一方で、藩の石高を上げ、増え続ける領民を養うには新田開発は必定であった。永忠に率いられた技術集団は前代未聞の難工事に取りかかり、ついには沖新田を干拓する。面積は1900ha、東西6.7km、南北3.4kmの広さにもなる。

 用水は吉井川、旭川ほかの小さな川から集め、その集積運河となる全長約13kmの百間川を開削し、遊水池と水門をつくり、海面水位が低くなる干潮時に水門を開けて海に排水する。これをシステムとして考案し実現したところに技術の革新性がある。この干拓工事には延べ400万人が動員されたという。沖新田の誕生によって4万石の耕作地が増え、藩や領民を潤すこととなった。沖新田は現在では岡山県を代表する美田地帯である。

 現在、岡山県の耕作地2万5000haのうち2万haが干拓によってもたらされたものという。岡山平野の風景は、先人たちの知恵と情熱が創った国土であることを、しっかりと胸に刻んでおきたい。
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沖新田の中央部を貫流する百間川には、水を河口部の遊水池に導くために築かれた誘水用の堤防など、随所に治水対策の工夫が施されている。
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河口部にある遊水池の百間川大水尾旧堤。永忠が考案したシステムで、遊水池と水門を組み合わせ、海面と水位の異なる百間川の水を海に排水する。
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田原用水路の石の水路橋(石の懸樋)。川を越えて用水を通すために考案された技術。この用水路によって付近は豊かな穀倉地帯になった。現在は、この水路橋はもとの場所から移築され遺構として保存されている。
現在に継承される美田と土木遺産
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現在の吉井川と沖新田九幡の潮止め堤防。全長12kmで、堤防沿いには昔ながらの四つ手網漁の仕掛け小屋が並んでいる。
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倉安川吉井水門の二の水門。水門は2門あり、「高瀬廻し」と呼ばれる舟だまりを設け、舟を往来させるため、異なる2つの川の水位を調整する閘門式水門という先進のシステムを導入した。
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吉井川の水を運ぶ倉安川。流域の田を潤しながら岡山城にも通じている。池田光政は参勤交代の折にこの川を高瀬舟に乗って帰城したともいわれている。
 
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