Blue Signal
January 2009 vol.122 
特集
駅の風景
出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
探訪 鉄道遺産
Essay 出会いの旅
狩野 博幸
同志社大学文化情報学部教授。1947年、福岡県生まれ。九州大学文学部、同大学院博士課程中退。同大学助手、帝塚山大学助教授を経て、1980年から2006年3月まで京都国立博物館研究官。担当した主な展覧会は「円山応挙」「若冲」「曾我蕭白」「スター・ウォーズ」「大レンブラント展」など。著書『目をみはる伊藤若冲の「動植綵絵」』(小学館)『もっと知りたい 曾我蕭白 生涯と作品』(東京書籍)『異能の画家 伊藤若冲』(新潮社)『狩野永徳の青春時代 洛外名所遊楽図屏風』(小学館)他。
旅の果てにあるもの
 博物館・美術館の学芸員もよく旅をする。もちろん“自分探し”などではなく、展覧会への出品依頼や作品調査のために国内外に旅をする。はからずも四半世紀におよぶ博物館員生活を送ったため、日本のいたるところや欧米の各都市に旅をした。

 外国出張の場合、京都駅発の「はるか」を利用して関西空港までゆくのだが、東京の友人にその話をすると、「はるか」って女性の名前みたいで何だか変だという。むくつけき僕の口から「はるか」という名が出るのが、ちょいと違和感を催すのに違いない。ただし昨今、綾瀬はるかの秘めたるファンとなった僕としては、快感をもって「はるか」の名を使っているのである。

 博物館生活の最後の企画となった「曾我蕭白[そがしょうはく]」展では、その出品依頼のため、アメリカやヨーロッパの美術館や個人所蔵家を訪れたが、国内も様々な土地を巡り回った。特別展覧会の場合、それが一年ほど続く。各地の旨いものに目がない僕は少しも苦にならない。
仕事と遊びが両方叶うのであるから、展覧会担当を自分から買って出ることもしばしばであった。おそらく、担当した展覧会の数としては日本一の学芸員であったろう。当然、出張費は大幅に足が出ることとなり、預金もない自転車操業の学芸員生活ということに成り果てた。その「蕭白」展でのことである。

 2月の初頭だった。まず鳥取に入った。県立博物館で朝から作品調査にかかり、昼食時には晴れていた天気が崩れてきて、雪が降る。夕方、仕事が終って外に出ると雪が積り始めているのである。夕食に待ちわびた松葉蟹なんぞをとって満足し(実際はふところの寒さに怯え)、店から一歩足を踏み出すと雪は尋常の深さではない。長い京都生活ではずいぶん以前にたった一度経験したことがあるが、この時点で、かすかな不安がきざして来た。バーで酒を呑んでこの不安をまぎらわす。

明くる朝、鳥取駅に辿り着くと列車は動いていない。不安は的中したのである。

 鳥取から因美線に乗って山の中にある智頭までゆかねば終らないこの旅である。智頭の昔から続くある山林地主の屋敷が目的で、そのお宅にはこれまで一度も展覧会に出たことのない蕭白筆の山水図襖絵の傑作があり、何としても出品の承諾を取る必要があった。決まりきった著名作ばかりではなく、初出品・新発見の作品を可能な限り展示する、というのが僕がつねに自分の展覧会に求める最大のテーマであったから、何としてもその襖絵はゲットしなければならなかった。

 しかし、列車は動かない。動かないどころか、倉吉方面から来るはずの列車が鳥取駅に着いていないのだ。たとえ着いたとしても、鳥取市内でこの雪なのだから、山中ではもっと凄いことになっているはずである。またの機会ではと思うかも知れないが、明日以降の出品行脚はすでに決定済みであり、図録の原稿の締切も迫っている。この機会を逃せば明日はない。出品交渉は直接交渉以外認めないと公言している僕としては、書類送付で済ますわけにはゆかないのである。「神は我を見捨てたか」という『八甲田山』のセリフが胸をよぎる。

 結局、当日雪が止んでいたこともあって、列車が動き始め、午前10時の約束が4時間遅れで智頭駅に辿り着いた。作品そのものは寄託中の博物館で調査していたのだが、駅に出迎えていただいた所蔵者ご夫妻に屋敷まで案内され、その場で出品承諾書にハンコを捺して貰えたのである。

 展覧会にはご夫妻ともども足を運ばれた。

 陳列計画はあくまで計画にすぎない。こうした旅のその果てに、展覧会というものが存在することも知っていただきたいものである。
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