Blue Signal
January 2009 vol.122 
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特集[豊穣の地を育んだ水土の国への旅 岡山] 蒼海を美田に変えた光政の藩政と経世学
岡山藩を立て直した英才津田永忠の実学
現在に継承される美田と土木遺産
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閑谷学校の校門(鶴鳴門)は2層で2つの屋根を持つ。二対の鯱と瓦は備前焼で、両脇には花頭窓が施され、社殿風の格式と威厳を放つ。鶴鳴門の呼称は、中国の詩経「鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ」に因む。
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 津田永忠は岡山藩きっての英才であり、岡山藩200年の歴史のなかで 最も傑出した藩政家だったと評されている。藩財政の立て直しや難民救済、そして藩主の命で手がけた優れた土木施設や遺構は、現在も岡山県の財産であり、永忠を郷土の誇りにする人は多い。

 明晰で利発な頭脳は少年期より異彩を放ち、14歳で光政の側児小姓として重用された。25歳の時には藩内の監査を司る大横目に就くという異例の昇進をとげる。彼も藩主光政と同じく熊沢蕃山を師とするが、その仕事ぶりは蕃山を凌ぎ、藩政に果たした役割は、今日でいえば国土交通、財務、厚生労働、農林水産の各大臣職を一人で兼務したようなものである。

 稀代の実務家であった永忠の活躍の第一幕は、光政の命で造った広大な和意谷[わいだに]墓所(池田家墓所)である。総工費は銀二百八貫(約780kg)、延べ10万人を要しわずか2年で工事を完成させた。その実務家としての手腕は目を見張るもので、続いて藩校の前身となる石山仮学校を建設。その後、学校奉行を任じられた永忠は、藩内の領地123カ所に手習い所を、岡山城内に藩校をつくる。これは革新的なことであった。国づくりの要諦は教育からという藩主光政の理念の実践である。藩校は、諸藩から大勢が見学に訪れて図面などを求めたという。また、123カ所の手習い所では身分に関係なく広く庶民に学問の機会を与えた。さらに、永忠は光政の意を受けて手習い所を統合し閑谷[しずたに]学校の開学へと発展させた。

 我が国最古の庶民の学問所は備前市の人里離れた閑とした谷間にいまも藩政時代のままの姿で佇んでいる。光政は、「藩の礎となる人間をつくる新しい学校環境として、閑静なこの地がふさわしい」と、ここ閑谷の地を選んだという。1673(延宝元)年に永忠はここに居を構え、本格的に建設を指揮した。

 建物は儒教思想に則り質素簡略だが、造りは壮大で精緻[せいち]である。最も古い建物は小斎で、つづいて聖廟(孔子廟)、学房(教室)、文庫(図書室)、そして学校の中心的建物で精神の支柱でもある講堂が完成するのは1701(元禄14)年のことである。全体が完成したのは光政の没後20年のことであった。この間に、光政は藩主の座を綱政に譲り、永忠は要職を解かれて閑谷学校の運営と和意谷墓所の管理という閑暇な日々を送っていた。

 そんな永忠が再び藩政の表舞台に呼び戻される契機となったのが、藩の非常事態時だった。河川の相次ぐ氾濫による大洪水は大凶作を招き、領民は次々に餓死し、年貢米が納められず藩の財政状況は危機的状況に陥っていた。永忠は綱政の信任を得て、藩財政再建、藩政改革の責任者としてそれまでにも増して、持てる知力と行動力で藩の立て直しに取りかかることになる。

 津田永忠の事蹟をまとめた岡山県の資料には、「領民の生活・文化の向上と安寧に多大な貢献をした。実用的で多種多様な数多くの構造物とそこに見られる高度な技術が、岡山の伝統と文化の源流となって現在に至っている」と記されている。
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閑谷学校の中心的建物で国宝の講堂。隣接する白壁の小さな建物は小斎といい、藩主が学校を訪れた際に使われた。茶室のように柿葺の簡素な造りで、学問に対する心構えを表しているともいう。(写真:山陽新聞社提供)
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講堂の内部。10本のケヤキの円柱に支えられ、廂の間と内室に分かれている。床は磨き抜かれ、凛とした空気が漂う。
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学校の敷地内は聖域とされ、周囲は隙き間なく組まれた石塀で囲まれている。石塀は一種の“結界”を表しているともいわれる。
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後楽園は池田綱政の命により津田永忠によって造られた「大名庭園」。14年の歳月をかけて1700(元禄13)年に完成した。日本で唯一の「林泉回遊式庭園」で、今も築庭当時の姿をほぼ残している。
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岡山後楽園の沢の池より唯心山と岡山城を望む。後楽園は岡山2代藩主池田綱政が津田永忠に命じて造園した日本三名園の一つ。
岡山藩を立て直した英才津田永忠の実学
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儒学を始めた孔子を祀る聖廟と楷の木の巨木。楷の木は大正時代に、中国の孔子廟にある楷の木の種から育苗されたものを譲り受け育ったもの。
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学校の南約1kmのところにある2本の石柱は、学校の入り口を示す一の門。生徒たちはここから襟を正して登校した。この石柱は高さが3.8mあるが、現在はその3分の2が地中に埋もれている。
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4重の扉を備えた土蔵造りの文庫。火災や盗難から貴重な書物を守り抜いてきた。背後には防火の役を果たす火除け山が設けられている。
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後楽園の林泉回遊式庭園。広大な芝生と旭川から取り込んだ沢の池の景観は、穏やかな瀬戸内の風景を想わせる。
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