大橋館(旧 富田旅館)から見た松江大橋。八雲はこの宿で迎えた松江の朝の様子を、『知られぬ日本の面影』の中で印象深く記している。早朝の大橋川は、今は宍道湖に向かうしじみ漁の船が行き交う。

特集 八雲のオープン・マインドと松江の面影 小泉八雲

2ページ中2ページ目

憧憬の地、『古事記』の舞台を巡る

早朝の松江大橋。橋を渡った北詰めに、八雲が赴任当初滞在した富田旅館があった。現在は、大橋館が立つ。

北堀橋から望む国宝松江城天守の眺望。八雲は堀端から松江城周辺を散歩するのが日課だった。

松江城内にある城山稲荷神社の狐像。明治期には、数千体の狐像が奉納されていたという。八雲は参拝に訪れては、感慨深く狐像を観賞していた。

 2週間の船旅を経て、船上から富士の偉容を仰ぎ、八雲は横浜港に到着した。藍色の暖簾に染め抜かれた漢字、着物姿や下駄の音など、日本の文化に魅せられた八雲は横浜周辺の寺社を巡り、鎌倉や江ノ島にも訪れた。8月には、英語教師として松江に赴任する。ニューオーリンズ万博で知り合った服部一三や『古事記』を英訳したチェンバレンの働きかけがあってのことだが、なにより『古事記』の舞台である出雲の国は、八雲にとって憧れの地であった。

 八雲は大橋川沿いの富田旅館(現 大橋館)に旅装を解き、ここで3カ月余り逗留した。旅館の2階から松江で暮らす人々の声や街の音に耳を傾け、その日常を「神々の国の首都」の冒頭から記している。「松江の一日は、寝ている私の耳の下から、ゆっくりと大きく脈打つ脈拍のように、ズシンズシンと響いてくる大きな振動で始まる」。その重い音とは、米をつく杵[きね]の音だ。続けて、寺の梵鐘の音や松江大橋から朝日に柏手を打つ人々の姿、行商人の声などさまざまな松江の日常を切り取っている。早朝の松江大橋に足を運ぶと、今はその頃とは様子も変わり、しじみ漁に向かう漁船のエンジン音が松江の朝を知らせている。

 旅館から宍道湖岸の借家に移った八雲は体調を崩し、身の回りの世話をしてくれる女性を雇う。後に生涯の伴侶となるセツだ。八雲はセツとともに、北堀町にある旧松江藩士の武家屋敷に転居する。八雲の日課は堀端から松江城周辺の散歩で、道中の「城山[じょうざん]稲荷神社」に毎日のように立ち寄っては、狐の石像を眺めるのがお気に入りだった。

幅約20m、奥行き約50mの「加賀の旧潜戸」。潜戸とは洞窟のことで、この場所は、あの世とこの世の境界とされている。周辺は大山隠岐国立公園に指定されている。

明治時代初期まで「杵築大社」と呼ばれていた出雲大社。御祭神は大國主大神。『古事記』に記される国譲り神話では、大國主が高天原の天照大御神に国を譲る。その時に造営した宮殿が、出雲大社の始まりとされる。

素盞嗚尊と稲田姫命の夫婦をご祭神とする八重垣神社の奥の院には、縁の遅速を占う「鏡の池」がある。

和服姿の八雲。松江で初めて正月を迎えた八雲は、紋付、羽織、袴姿で年始回りをした。
(写真提供:小泉八雲記念館)

生涯にわたり八雲を献身的に支え続けた小泉セツ。
(写真提供:小泉八雲記念館)

八雲の来日第1作目の作品『知られぬ日本の面影』。松江、出雲、山陰地方の深層文化を文学的に表現した紀行文集。(写真提供:小泉八雲記念館)

再話文学における八雲の最高傑作『怪談』。妻セツの語る日本の怪異伝承に、文学的魂を吹き込んで英語で書き表した。(写真提供:小泉八雲記念館)

八雲とセツが約5カ月間暮らした「小泉八雲旧居」。旧松江藩士根岸家の屋敷で、根岸家代々の尽力により、当時の家と庭が現在に受け継がれている。

「小泉八雲記念館」館長の小泉凡氏。『怪談』ゆかりの地を訪ねる「松江ゴーストツアー」は大人気。大学教授でもある凡氏は、「妖怪学」の授業も行っている。

八雲を顕彰する「小泉八雲記念館」。八雲旧居の西隣に位置し、館内には、八雲の遺品や原稿、初版本などが展示されている。

 八雲は島根県尋常中学校、師範学校の教師として教鞭を執るかたわら、頻繁に出雲地方を旅した。赴任後すぐに向かったのは、杵築[きづき]大社(出雲大社)だ。英訳『古事記』を通じ、出雲大社にまつわる出雲神話にこそ、日本国誕生の本質が語られていると考えていたからだ。千家尊紀[せんげたかのり]宮司の自らの案内によって西洋人として初めて本殿への昇殿が許された。「杵築を見るということは、今も息づく神道の中心地を見ることであり、19世紀になった今日でも脈々と打ち続けている古代信仰の脈拍を肌身で感じとることである」と、神道に向き合ったその思いを『知られぬ日本の面影』〜「杵築」に記している。

 また八雲は、島根半島の北側に位置する「加賀[かか]の潜戸[くけど]」を訪れている。「髪の毛三本動かす」ほどの風でも、舟では近寄りがたい難所で知られる洞窟だ。「旧潜戸」は、幼くして亡くなった子どもたちの魂が辿り着く場所とされ、その霊を供養している洞窟だ。洞窟内には、積み上げられた小石の塔が、お地蔵様とともに無数に並んでいる。八雲は新婚旅行としてセツとともにここを訪れ、古くからの庶民信仰に触れている。

 「八雲立[やくもた]つ 出雲八重垣[いづもやえがき] 妻込めに 八重垣造る その八重垣を」(『古事記』)。素盞嗚尊[すさのおのみこと]が稲田姫命[いなだひめのみこと]をめとった喜びの歌は、「八重垣神社[やえがきじんじゃ]」の名の由来だ。八雲の名もこの歌にちなんでいる。八岐大蛇[やまたのおろち]退治ゆかりの神社に足を運んだ八雲は、奥の院を「神秘の森」と称し、恋人たちの恋の吉兆を占う「鏡の池」に大いに興味を示した。

 松江藩の中級武士の屋敷が並ぶ塩見縄手には、八雲の旧居と併設して「小泉八雲記念館」が立つ。館長は八雲のひ孫にあたる小泉凡[ぼん]氏だ。「悲劇を何度も経験したことが、八雲のオープン・マインドを醸成した要因だと思っています」と話す小泉さん。多様な文化に寄り添い、理解を深める。多角的でフラットな目線が、八雲の作品には投影されていると語る。八雲について話す柔和な凡氏の言葉を聞いていると、八雲が見た松江の面影が色濃く浮かび上がってきた。

参考文献/新編『日本の面影』(角川ソフィア文庫)、新編『日本の面影Ⅱ』(角川ソフィア文庫)、
『小泉八雲、開かれた精神(オープン・マインド)の航跡。』(小泉八雲記念館 図録)

ページトップへ戻る
前のページを読む
  • 特集1ページ目
  • 特集2ページ目
ローカルナビゲーションをとばしてフッターへ