嫁ケ島の島影と、袖師地蔵のシルエットが浮かび上がる宍道湖の夕日。松江で尋常中学校の英語教師として過ごした八雲は、特に宍道湖の朝夕の風景に心を奪われた。

特集 八雲のオープン・マインドと松江の面影 小泉八雲

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異文化に触れて培われた、オープン・マインド

 「はるか彼方の湖水が一番深まる辺りは、言葉にできないほどやさしいスミレ色に染まり、松林の影に覆われる小島のシルエットが、その柔らかで甘美な色彩の海に浮かんでいるように見える」

 小泉八雲著、『知られぬ日本の面影』〜「神々の国の首都」の一節である。八雲は宍道湖[しんじこ]に面した行きつけの蕎麦屋から沈む夕陽を眺めるのが、松江での楽しみの一つだった。湖面を茜色に染めた夕陽が沈む静かな夕暮れ時は、八雲が見た風景と今も変わらない。

 小泉八雲は帰化後の日本名で、帰化前の名はパトリック・ラフカディオ・ハーン。アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に、1850(嘉永3)年ギリシャで生まれた。2歳で父の実家のあるアイルランドのダブリンに移るが、温暖な地中海で育った母ローザは気候と文化の違いに馴染めず、4歳の八雲を残してギリシャに戻る。父チャールズもまた再婚をしてアイルランドを離れる。その後、八雲は二度と両親に会うことはなかった。八雲は敬虔なカトリック教徒の大叔母サラ・ブレナンのもとで育てられ、厳しく躾けられた。罰を受けて明かりのない部屋で一人寝かされ、しばしばお化けや幽霊を見たという。サラの意向により、13歳で北イングランドの全寮制の神学校に入学するが、厳格な宗教教育に疑問を抱く。この学校時代に遊戯中の事故で左眼を失明する。また、八雲に追い打ちをかけたのが大叔母サラの破産で、そのため神学校を中退する。

アイルランドのトラモアの海岸。サラの別荘があり、八雲は夏の間は滞在して、ここで泳ぎを覚えた。八雲は水泳が好きで、山陰の海でもよく泳いだ。(写真提供:小泉家)

サラ・ブレナンと幼年時代の八雲。サラは八雲の父方の大叔母。
(写真提供:小泉八雲記念館)

小泉八雲の足跡

  • 1850(嘉永3)年…

    ギリシャのレフカダ島に生まれる

  • 1852(嘉永5)年…

    父の実家があるアイルランドのダブリンに移る

  • 1863(文久3)年…

    イングランド北東部のカトリック系神学校に入学

  • 1866(慶応2)年…

    校庭で遊戯中に事故により左目を失明

  • 1867(慶応3)年…

    世話を受けていた大叔母サラ・ブレナンが破産、神学校中退

  • 1869(明治2)年…

    移民船に乗って渡米、オハイオ州シンシナティに着く

  • 1877(明治10)年…

    シンシナティを去り、ルイジアナ州ニューオーリンズに移る

  • 1884(明治17)年…

    ニューオーリンズ万国博覧会を取材

  • 1890(明治23)年…

    4月 横浜に到着、8月 松江に英語教師として赴任

  • 1891(明治24)年…

    身の回りの世話のため小泉セツが雇われる、11月熊本に転任

  • 1894(明治27)年…

    日本に関する最初の著書『知られぬ日本の面影』を出版

  • 1896(明治29)年…

    帰化手続きが完了し小泉八雲と改名、帝国大学講師となる

  • 1904(明治37)年…

    『怪談』を出版、9月 狭心症のため逝去

北イングランドの全寮制の神学校、セント・カスバート・カレッジ アショー校在学時代の八雲。(写真提供:小泉八雲記念館)

アメリカに移民後、シンシナティ・エンクワイアラー社で、記者として活動した八雲。「皮革製作所殺人事件」などの事件を次々と執筆し、事件記者として名をあげる。
(写真提供:小泉八雲記念館)

初の小説『チータ』(1889年)と、紀行文『仏領西インド諸島の二年間』(1890年)。アメリカ南部や、クレオール文化の取材を通して、オープン・マインドを醸成していった頃の作品。
(写真提供:小泉八雲記念館)

八雲が来日後に横浜で買い求めたチェンバレン英訳『古事記』。見返しに神々の名前など、多くの書き込みをしている。日本地図には『古事記』にゆかりのある地名が印刷されている。
(富山大学附属図書館所蔵)

来日の際に、八雲がアメリカから持ってきたトランクとボストンバッグ。持ち物は多くなかったという。(小泉八雲記念館蔵)

 自力で生きることを余儀なくされた八雲は、19歳で単身渡米。親戚を頼りにオハイオ州シンシナティに向かうが、相手にされず、日雇い仕事で飢えをしのぐ日々を送る。そんな時、印刷業を営むヘンリー・ワトキンと出会い、ワトキンの紹介で業界誌の編集や校正の仕事に就くことができた。八雲はその文才が認められ、シンシナティ・エンクワイアラー社の記者として活躍する。下宿先の料理人をしていたマティー・フォリーと恋に落ちて結婚するが3年余りで破綻。しかし、この結婚生活が八雲の創作活動に影響を与える。それは、異界の語り部でもあったマティーから、複雑な多民族社会に生きる人々の暮らしや、当時の奴隷たちの怨念を秘めた幽霊譚などを八雲に伝え聞かせたからだ。それを通じて人種や文化の多様性に関心を深め、偏見なく異文化を受け入れる開かれた精神、“オープン・マインド”が八雲に芽生えていく。

 1877(明治10)年、ルイジアナ州ニューオーリンズに移った八雲は、会社を転々としながらも記者生活を続ける。フランス、アフリカ、ネイティブアメリカンの多様な文化が融合した「クレオール文化」に注目し、取材を重ねることでオープン・マインドをより熟成させていく。1884(明治17)年に開催されたニューオーリンズ万国博覧会に記者として派遣され、八雲の大きな転機のきっかけとなる。そこで目の当たりにした日本文化の不思議が琴線に触れ、毎日のように取材に訪れた。この折、後に八雲を支える日本政府代表の文部事務官の服部一三[はっとりいちぞう]と懇意になる。

 ニューヨークに戻った八雲は日本行きを決意する。ハーパー社の編集者から日本文化についての書籍を借りて読み、中でもチェンバレン英訳『古事記』に関心を示した。日本文化の古層が残る「出雲」の地と「出雲神話」に興味を抱いた八雲は、ついに1890(明治23)年3月、ハーパー社の特派記者としてニューヨークを出発。カナダのバンクーバーから汽船で横浜に向けて旅立つ。39歳であった。

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