


老舗旅館「旧吉野屋旅館」の門を活用した現在の公衆浴場「総湯」。山代温泉には総湯と古総湯を中心に旅館や商店が立ち並ぶ。

大正から昭和時代当時の「総湯」。

1901(明治34)年に発刊した歌集『みだれ髪』。晶子は鉄幹との恋を大胆に歌い、賛否の嵐を巻き起こした。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」など全399首。 (堺市博物館蔵/与謝野晶子記念館提供)

与謝野晶子、山川登美子、増田雅子共著の詩歌集『恋衣』。1905(明治38)年に本郷書院から出版され、収められた短歌は晶子148首、登美子131首、雅子114首。また、晶子の詩6編が掲載されている。(堺市博物館蔵/与謝野晶子記念館提供)

創建1200余年、1647(正保4)年に現在地へ遷座された安宅住吉神社。境内には、源義経と弁慶一行が安宅の関守富樫から難を逃れたとの伝承が残る『勧進帳』の舞台、安宅の関跡がある。

安宅住吉神社境内にある晶子の歌碑。1933(昭和8)年11月8日に与謝野夫妻が安宅住吉神社を訪れ、同社の画帳、半折、けやきの板には自筆が残されている。
『明星』四号において、山川登美子は九首、晶子は七首の歌が掲載された。晶子にとって、登美子は歌と恋のライバルでもあった。鉄幹は晶子を「白萩の君」、登美子を「白百合の君」と呼び、二人はそれに応えるように鉄幹への思いを大胆に、脇目もふらず歌に重ねていく。そして、晶子が鉄幹を追いかけて東京へと向かったのは、その翌年の1901(明治34)年6月。晶子22歳だった。
晶子の初の歌集『みだれ髪』の発行は、1901(明治34)年8月。鳳晶子の名で発表された。歌のほとんどが、鉄幹への恋心を情熱的に詠んだものだ。反響は大きく、歌壇の垣根を越え、一般社会にまで影響を及ぼした。女性歌人としての名声を得た晶子は、その2カ月後に紆余曲折を経て鉄幹と結婚し、与謝野晶子となった。文芸仲間が晶子[しょうこ]を「あきこ」と読み、後にそれにならい筆名にしたといわれる。
『明星』を発行する新詩社の経営は決して、順調ではなかった。『みだれ髪』で全国の読者を魅了した新詩社は歌壇の中心的な勢力になったものの、北原白秋や吉井勇などの脱会により、『明星』は1908(明治41)年に100号で終刊する。失職した鉄幹だが、与謝野家の生活は続く。これまでも家庭を支えていたのは晶子で、この時すでに5人の子供がおり、小説や随筆、論評などの活動の場をさらに広げたのはすべて家族の生活のためだった。
1911(明治44)年、鉄幹は渡欧する。気落ちした鉄幹のために、晶子が欧州への渡航費を工面したのだ。厳しい生活だったが、後から追いかけて晶子もパリに向かう。この旅で刺激を受けたのは晶子の方だった。帰国後、社会問題の評論などを大いに展開していく。鉄幹も大学の教授に招かれ、生活もようやく落ち着き始める。

紫式部公園の紫式部像。紫式部は越前国司に任じられた父 藤原為時とともに、996(長徳2)年に下向した。都以外で唯一過ごした場所が、越前国府だったとされている。

紫式部公園から眺める日野山。「越前富士」とも呼ばれる日野山を仰ぎ、紫式部は歌を詠んでいる。「ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩(をしほ)の松に今日やまがへる」『紫式部集』。

毫攝寺阿弥陀堂南隣の樫の木の下にある「のゑ女」の碑と晶子の歌碑。毫攝寺に伝承される「のゑ女」の話は、境内で遊んでいた姫二人に手負いの猪が襲いかかり、のゑ女が勇敢に身を呈して姫を守ったという。晶子はこの碑の前で、強い関心を示していたそうだ。
(撮影:藤 光真)

晶子と寛が一本の筆で交互に8首の歌を詠んだ屏風。

晶子30歳頃の写真。(文化学院所蔵)

世界最古の長編文学作品とされる紫式部『源氏物語』全54帖を、与謝野晶子が現代語訳した『新訳源氏物語』(上巻)。晶子渾身の作品でもある。(堺市博物館蔵/与謝野晶子記念館提供)

東京荻窪の自宅での与謝野夫妻(昭和5年頃)。寛は1935(昭和10)年に62歳で他界。悲しみにくれながらも晶子は再び創作意欲を燃やし、2度目の『源氏物語』の現代語訳を1939(昭和14)年に完成させる。その3年後、晶子は63歳の生涯を終える。(鞍馬寺所蔵)
与謝野夫婦は後年よく旅をした。地方での講演が多かったが、二人にとって旅は創作の源泉でもあった。中でも温泉が大好きで、全国方々の温泉地を訪れている。1931(昭和6)年は夫婦で旅した回数が最も多く、その年に加賀の名湯「山代温泉」を訪れ、当時あった吉野屋旅館に泊まり、「山代の温泉[いでゆ]めでたし白雪を置く山山のはらからのごと」という歌を残している。歌からは、雪化粧した北陸の美しい霊峰白山[はくさん]の山稜が彷彿とさせる。
1933(昭和8)年11月には再び山代温泉を訪れ、夫婦で金沢や高岡などの北陸路を巡っている。11月8日には『勧進帳[かんじんちょう]』で知られる「安宅住吉[あたかすみよし]神社」に参拝し15首の歌が詠まれた。最後に訪れたのが、福井県の武生[たけふ](現越前市)だ。武生は平安時代、京の都を離れた紫式部が1年余りを過ごした地でもある。『源氏物語』の現代語訳に何度も向き合っていた晶子にとって、ゆかりの深い地であった。武生駅から南西にある「紫式部公園」には、紫式部像が都の方角に視線を向けて立っている。その同じ方向に見えるのは日野山で、晶子は紫式部に捧げる歌を詠んでいる。「われも見る源氏の作者をさなくて父と眺めし越前の山」。紫式部を「12歳の時からの恩師」と仰ぐ晶子にとって、紫式部も眺めた日野山への敬慕の歌であっただろう。
武生には、与謝野夫妻ゆかりの寺院がある。真宗出雲路派本山「毫攝寺[ごうしょうじ]」だ。当時の24代門主 善解上人[ぜんかいしょうにん]の縁で毫攝寺を訪れた。その際に、二人は八曲の屏風や短冊、色紙に多くの歌を残している。善解上人は、常に鉄幹を立てる控え目な晶子が印象的だったという。御堂二階の和室で、二人交互に歌を詠んだそうだ。屏風の筆致を眺めていると、「はい、次はお前」「次はあなた」と、仲睦まじく歌を詠み合う晶子、寛の姿が浮かんでくるようだった。
参考文献/『私の生い立ち』(岩波書店)、『あじまの再発見』(味真野自治振興会)、
『与謝野晶子歌集 与謝野晶子自選』(岩波文庫)、『与謝野晶子歌碑めぐり』(堺市博物館編)