与謝野晶子記念館に再現された晶子の生家「駿河屋」。羊羹で有名な和菓子商で、晶子は店番をしながら和歌の投稿を続けていた。2階は西洋づくりで、大きな時計が設置された和洋折衷の建物だった。

特集 近代を切り開いた「情熱の歌人」 与謝野晶子

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文才を育んだ堺、『明星』との邂逅

 「われの名に太陽を三つ重ねたる親ありしかど淋し末の日」『流星の道』1924(大正13)年刊行。

 上は与謝野晶子が後年に詠んだ歌だが、「晶」の字は、両親から与えられたことを伝えている。文芸雑誌に初めて投稿したとされる歌一首(『文芸倶楽部』明治28年9月号)は、「鳳晶子[ほうしょうこ]」の名であった。

 戸籍名は、鳳志[ほうし]よう。1878(明治11)年、堺県堺区(現堺市堺区)甲斐町に鳳家の三女として生まれた。この頃は女の子に「子」をつけて呼ぶことが一般的で、家庭内では「しよう子」と呼ばれた。生家は和菓子商を営む駿河屋で、のれん分けにより晶子の祖父が堺で店を開き、父が二代目宗七として跡を継いだ。宗七は読書好きで俳句をたしなむ教養人だったが、店の切り盛りは母つねと晶子に任せきりであった。店番はもっぱら晶子が務め、帳場で本を読む晶子の姿も伝えられている。なにより本の虫だった晶子は、父の蔵書を引っぱり出し、森外主宰の『志がらみ草紙』や『文学界』などの文芸雑誌、尾崎紅葉、樋口一葉などの小説、そして『万葉集』など古典文学にも親しみ、なかでも『源氏物語』を愛読したという。この駿河屋で過ごす時間は、晶子に文学の素養を大いに育んだ。時代は移り生家は今はないが、その周辺には晶子が幼少期に遊んだ開口神社[あぐちじんじゃ]や堺山之口商店街が当時を偲ばせる。晶子を顕彰する「さかい利晶[りしょう]の杜[もり] 与謝野晶子記念館」では生家を忠実に再現し、晶子の作品とその生涯の軌跡を紹介している。

堺市堺区甲斐町の与謝野晶子生家跡と歌碑。晶子は与謝野鉄幹に出会い、上京するまで堺で過ごした。

与謝野晶子の足跡

  • 1878(明治11)年…

    堺県堺区(現大阪府堺市堺区)に生まれる

  • 1892(明治25)年…

    堺女学校(現大阪府立泉陽高等高校)卒業、古典などを読みふける

  • 1895(明治28)年…

    『文芸倶楽部』第9編に鳳晶子の名で短歌が掲載

  • 1900(明治33)年…

    東京新詩社の社友となり、『明星』を創刊した与謝野鉄幹と会う

  • 1901(明治34)年…

    上京して、歌集『みだれ髪』刊行。鉄幹と結婚

  • 1912(明治45)年…

    『新訳源氏物語』刊行開始、鉄幹を追って渡欧する

  • 1915(大正4)年…

    『太陽』に「婦人界評論」連載執筆を始める

  • 1918(大正7)年…

    平塚らいてうと母性保護論争を展開

  • 1921(大正10)年…

    鉄幹らとともに「文化学院」を設立

  • 1933(昭和8)年…

    『与謝野晶子全集』刊行開始

  • 1939(昭和14)年…

    『新新訳源氏物語』刊行

  • 1942(昭和17)年…

    5月29日永眠、9月遺稿歌集『白桜集』刊行

堺で最も古い商店街の歴史を誇る「堺山之口商店街」。商店街に隣接する開口神社の境内で、晶子はよく遊んでいたという。

浜寺公園にある晶子の歌碑。当時は寿命館という旅館があり、そこで歌会が催された。現在も美しい松林の公園は、かつての白砂青松の面影を残している。

1900(明治33)年11月、大阪の写真館で撮影された晶子(右)と山川登美子の写真。(山川登美子記念館所蔵)

詩歌の革新のために「東京新詩社」を結成した与謝野鉄幹。(『明星』より/臨川書店提供)

寿命館で開かれた歌会の参加者が寄せ書きした扇。扇子には晶子や鉄幹、山川登美子などの名が連なる。
(福井大学附属図書館所蔵)

東京新詩社の文芸誌『明星』。
(臨川書店提供)

与謝野晶子の生家「駿河屋」を再現した 「与謝野晶子記念館」。館内には、発行された晶子の本の装幀や、34年間を一緒に歩んだ与謝野寛との生涯などを紹介している。

与謝野晶子記念館/さかい利晶の杜内
(大阪府堺市堺区宿院町西2丁1−1)

 晶子は16歳で初めて歌を投稿してからその後は、『堺敷島会歌集』に精力的に投稿する。大阪で結成された「浪華青年文学会」の機関誌『よしあし草』が創刊されると、その翌年には河野鉄南[こうのてつなん]などの文学青年を中心に「堺支会」が作られ、晶子も入会する。そこで、晶子は鉄南に対して一方的に恋に落ち、積極的に恋文を送り続け、その数は29通。後に「情熱の歌人」と呼ばれた片鱗をのぞかせるエピソードだ。その鉄南が一冊の文芸誌を、鳳家に届けた。与謝野鉄幹(本名は与謝野寛)主宰の『明星』だ。この一冊の本が晶子の運命を大きく動かすこととなる。これまで関西で活動していた晶子にとって、東京の文芸雑誌は未知であった。それを察するかのように、鉄幹から誘いの手紙が届いた。早々に六首の歌を送ると、それに呼応するかのように六首すべての歌が、『明星』二号に掲載された。次いで、『明星』三号に至っても、九首すべてが掲載されていた。突如、彗星のように現れた晶子は、『明星』における女性歌人としての位置を確立する。その評価は鉄幹だけにとどまらず、編集する「東京新詩社」内にまで及んだ。

 鉄幹が大阪を訪れたのは、『明星』が創刊された1900(明治33)年。目的は新詩社支部拡張や宣伝などだが、晶子という人物を自身の目で確かめることもまた理由の一つだった。鉄幹は大阪北浜の平井旅館で初めて晶子と対面する。この折、新進気鋭の歌人 山川登美子も同席していた。二日後には浜寺の寿命館で催された歌会で二度目の再会を果たす。当時、浜寺から高石までの海岸一帯は、「高師[たかし]の浜」と呼ばれる大阪湾に面した白砂青松の景勝地で、料亭や旅館などが並ぶ観光地だった。美しい浜辺をともに歩み、歌を詠みあったのだろう。すでに晶子の思慕の情は鉄幹へ移り、やがてその思いを何のためらいもなく率直に歌にのせていく。

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