近代化産業遺産

鉄鋼の国産化を確立し、日本の重工業の道を拓く。

「鉄は文明開化の塊なり」。近代の啓蒙学者 福沢諭吉のことば通り、明治維新以降急速な産業化が進む日本において、製鉄は近代化の要であった。高まる鉄鋼需要を背景に、鋼材の国産化をめざし国家事業として挑んだ「官営八幡製鐵所」の建設。世紀を超え、発祥の地にそびえる高炉がその歩みを物語る。

官営八幡製鐵所 旧本事務所眺望スペースへは、鹿児島本線スペースワールド駅から徒歩約10分。

現在、日本製鉄株式会社九州製鉄所八幡地区として操業中の構内に佇む旧本事務所。2015(平成27)年、「官営八幡製鐵所」が世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録されるのをきっかけに眺望スペースが整備され、創業時のままの姿を見ることができる。※旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場の施設はすべて非公開

日本の産業革命を支えた近代製鉄

創業の翌年、高炉は休止に追い込まれたが、野呂景義はドイツ式の高炉が日本の原燃料に適応していないと考え設備を改善。第3次火入れに成功し操業を軌道に乗せた。

 古来より、日本では砂鉄を原料とした「たたら製鉄」という独自の技術が培われ、刀や農機具が作られてきた。しかし、この製鉄法による鉄は脆く、幕末期に国防意識の高まりとともに模索された大砲鋳造などには適さなかった。強靱な鉄づくりが求められる中、1858(安政5)年、岩手県釜石で鉄鉱石を原料とする高炉法による近代製鉄の火が灯る。明治政府は、1880(明治13)年に官営釜石製鉄所を開所。先進的なイギリスの製鉄技術を導入し、大量生産をめざしたが、わずか数年後には閉鎖し民間に払い下げた。しかし、この経験は、その後の新たな官営製鐵所の創業に活かされることとなる。

 明治の中頃になると、鉄道や造船、機械工業などの発展により鉄の需要が増大。それまで輸入に頼っていた鋼材を生産するため、製鉄所の建設が急がれた。政府は、国家事業として「銑鋼一貫製鉄所※1」の建設を決定。いくつかの候補地の中から、建設場所に選ばれたのが八幡村(現北九州市八幡東区)であった。洞海湾に面したのどかな村は産炭地筑豊に近く、陸海の輸送が可能であったこと、用水が十分に確保できることなどがその理由とされる。

  • ※1:鉄鉱石を溶かして銑鉄を生産し、その後鋼材までを一貫して作ることができる製鉄所。

安定した鉄生産が日本経済の礎を築く

第三次拡張計画に伴う水資源確保のために建設された河内貯水池。生産量拡大に貢献し、今も現役施設として製鉄を支える。

赤煉瓦と白御影石のコントラストが印象的な旧本事務所。煉瓦を互い違いに積み上げる「イギリス積み」の外壁、屋根は和瓦を採用するなど、和洋折衷の特徴を持つ。

創業当時から現存し、鉄骨建造物としては国内最古といわれる修繕工場。当初はドイツ製の鉄を使って建てられたが、鋼材生産量の増大に伴う増築部分には八幡製鐵所で作られた国産の鉄が使われている。現役の産業設備として今も稼働する。

旧鍛冶工場は、大型のスパナやハンマー、機械の架台など鋼材製造のために建設された。増築・移設された後、製品試験所として使用され現在は史料室に。

 当時の日本には近代的な大規模製鉄所を建設する技術はなく、製鐵所の技監に就任した大島道太郎は、ドイツから最先端技術を導入することを決定。グーテホフヌンクスヒュッテ社に設計から建設までを依頼した。生産設備に先駆け、まず建設されたのは初代本事務所で、官営の製鐵所として生産活動を開始する2年前の1899(明治32)年に竣工。中央にドームを設けた左右対称のモダンな建物には、長官室や技監室、ドイツから招いた技師や助手の部屋が設けられ、製鐵所全体の中枢を担う事務所として機能した。

 その後、1900(明治33)年には、製鐵所で使用する機械の修繕や部材の製作加工を行う修繕工場、製鐵所建設に必要な鍛造品※2の製造を行うための鍛冶工場などが着々と建てられた。高さ30mの巨大な溶鉱炉・東田第一高炉に歴史的な火入れが行われたのは、1901(明治34)年2月5日。操業当初はトラブルが相次いだが、釜石での経験を持つ工学博士 野呂景義が不具合の原因を究明。日本人技術者の手で鉄の生産を軌道に乗せ、1910(明治43)年には国内の鋼材生産量の90%を占めるまでになった。安定した鉄生産によって日本の経済発展を支えたこれらの産業遺産は、製鉄の近代化に挑んだ先人の功績を今に伝えている。

  • ※2:高温に熱した鉄をプレス機械でたたきながら形を整えてつくる金物や工具。
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