エッセイ 出会いの旅

星野 佳路

星野リゾート代表。1960年生まれ、長野県軽井沢町出身。慶應義塾大学経済学部を卒業後、米国コーネル大学ホテル経営大学院修士課程修了。大正時代から続く家業の星野温泉(現・星野リゾート)を受け継ぎ、1991年、社長に就任。所有と運営を一体とする日本の観光産業の常識を破り、運営サービスを提供するビジネスモデルへ転換。現在、ラグジュアリーリゾート「星のや」、温泉旅館「界」、リゾートホテル「リゾナーレ」、都市観光ホテル「OMO」、ルーズなホテル「BEB」の5ブランドを中心に、国内外約40施設を運営。年間60日はスキーを楽しむスキーヤー。

「湯のまちの奇跡」

 長野県軽井沢の生まれで、趣味はスキー、学生時代はアイスホッケー部。クラブの合宿や遠征も含め、旅先は雪や氷のある北国ばかりで、西の方へ出かける機会はほとんどなかった。唯一、子どもの頃に行ったのが、1970年の「大阪万博」。気が遠くなるほどの長蛇の列に一日中並んで(いた気がする)、アメリカ館で「月の石」を見た。この旅で初めて新幹線にも乗り、食堂車の存在を知った。「列車の中にレストランがあって、走りながら食事ができるなんて!」。その驚きと興奮を今も鮮明に憶えている。だから新幹線の食堂車がなくなったときは残念だった…。時を経て、スキーでは上質の雪を求めてとうとうスイスまで行くようになった。スイスは鉄道網が充実しており、チューリッヒから鉄道を乗り継いでアルプスの最高峰・ユングフラウヨッホの山頂近くまで行ける。その登山鉄道に食堂車があり、乗るたびにあの頃の新幹線の食堂車を思い出す。

 万博への旅以降、西には縁がないまま大人になった。今の仕事が軌道に乗り、観光の仕事や講演に呼ばれて出かける機会ができた。岩国の錦帯橋、倉敷の美観地区、熊野古道の一部を歩いたこともある。島根県の玉造温泉に「界 出雲」をつくるため西に出没するようになった頃、テレビの撮影に呼ばれて石見銀山で対談をした。その夜、里山の水田にしつらえた宴席でお酒を呑んだ。森が間近に迫る水田の眺めがあまりに美しく、地元・長野の田園ともどこか趣きが違って、深く印象に残っている。

 このところ、山陰の長門湯本に足しげく通っている。音信川という風情ある名の清流に沿って旅館や外湯が連なる。開湯は約600年前、山口県最古の湯のまちだ。数年前からこの温泉街のリニューアルをお手伝いしている。宿の再生は数多く手がけてきたが、まち全体の“面的再生”は初めてである。“まちぐるみ”は理想だが、地域の意見が一致することはまずなく難しい。だが、ここでは市長のリーダーシップのもと、次世代を担う後継者の熱意や地元の人たちの思いが一つになり、おもしろいように動きだしている。奇跡的なことだ。郷土愛が強いほど、守ろうとして変化を嫌うものだが、このまちの人たちは土地への愛着は深いけれど、「変えよう」「変わろう」という思いで一致できた。意見の相違がなかったわけではない。たとえば再生計画の中で、外湯の一つ「礼湯」の移転には根強い反対があった。が、名刹・大寧寺の住職の「200年前には外湯は別の場所にあった」の一言で、誰もが納得。年長者に、若い人を後押しする度量があり、世代交代もうまくいっている。

 2016年にまちに提案したマスタープランで「日本の温泉ランキングTOP10入りをめざす」という目標を掲げた。その実現を信じてくれている人たちが大勢いる。若い世代の中には、計画を知って地元に戻ってきた人もいると聞く。建て替えが決まった外湯「恩湯」を守り続けていくために、温泉街の後継者たちが新会社を興した。窯元を受け継ぐ若者らも加わって萩焼の器でもてなすカフェもオープンした。老舗の商店がマスタープランのデザインに合わせて外観を改装したり、その作業を町の人たちが手伝ったり。音信川にはひと足先に「川床テラス」ができて、訪れる人たちの憩いの場になっている。2020年1月から3月にかけて残る整備も次々と完成し、河畔には「界 長門」も開業する。

 生まれ変わる湯のまちが今後どのような物語を紡いでいくのか、責任と重圧を感じながらも楽しみにしている。しばらくは山陰への旅が続くだろう。それを見越した社員が、山陰にもいいスキー場があると耳寄りな話を教えてくれた。近頃は海外でばかり滑ってきたが、今シーズンは山陰のスキー場へ行ってみよう…冬本番を前に、そんな気持ちになっている。

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