和菓子の歳時記

むらすゞめ

白壁の土蔵、塗屋造りや格子窓の町家の佇まいが往時を偲ばせる倉敷。
古色古香の景観美とともに、街を代表する存在が倉敷の郷土菓子「むらすゞめ」だ。創業当時よりこだわる手焼きの素朴な味わいには街の歴史や文化が息づいている。

およそ150年前の町家を活かした橘香堂「美観地区店」。

倉敷に生まれ育った生粋のふるさと銘菓。

天領時代を物語る名物菓子

 古くは備中松山藩の玄関港として、上方への物資の輸送中継地の役割を担っていた倉敷。1642(寛永19)年には代官所が置かれ、江戸幕府直轄の天領とされた。現在の「倉敷美観地区」一帯は、「備中三白(米・綿・塩)」など周辺の特産物が倉敷川の水運によって集積される一大商都であった。倉敷という地名は、備中米の米蔵が多く軒を連ねる「倉敷地」に由来するともいう。観光客を乗せた川舟がゆったりと流れる倉敷川も、当時は潮の干満を利用して物資を積んだ多くの高瀬舟が行き交った。地域の人々の暮らしは、米の出来不出来によって大きく左右したため、毎年お盆になると、豊作を祈願してイ草で編んだ笠をかぶり、豊年踊りを踊るのが習わしだったという。

 こうした土地の伝承に着想を受け、1877(明治10)年創業の「橘香[きっこう]堂」初代店主が作り上げた和菓子が、銘菓「むらすゞめ」だ。菓子の材料には米粉が使われていた時代、小麦粉や卵で作る菓子は珍しく、ハイカラな菓子として注目を集めたそうだ。店主と親交のあった窪屋郡倉敷村の初代郡長 林孚一[ふいち]氏は、黄金の稲穂のような色合い、踊りの編み笠を模した形から、米に群がる雀、「むらすゞめ」と命名。餡を包んだ外皮の気泡は、米をついばむ無数の雀を表しているという。以来140余年、「むらすゞめ」は観光都市倉敷の名物菓子となり、明治の伝統を今に受け継ぐ。また、実りの秋を表現した季節銘菓として、裏千家、表千家、速水流など、茶道五流派の10月の菓子に指定されている。

受け継がれる手焼きの風趣

新鮮な卵、小麦粉、砂糖を独自に配合した生地で外皮を焼いていく。鉄板に素早く、薄く、均一に生地を伸ばすのが美しい形に仕上げるコツ。

気泡ができた面が表になるように焼いた生地を返し、その上に色艶よく、丁寧に炊き上げられた橘香堂自慢の粒餡をのせる。

生地の端を両手の親指と人さし指でつまみ、ひだを入れながら編み笠の形に餡を包む。焼き立てはパリッと、時間が経つとしっとりとした食感に変わる。

 小麦粉、卵、砂糖を合わせた生地を鉄板に薄く伸ばし、焼いた面を内側に返して餡を乗せ、半分に折りたたむ。「むらすゞめ」は、流れるような手技によって一つひとつ丁寧に焼かれている。創業以来、今も変わらずに受け継がれる手づくりへのこだわりだ。さらに、素材を吟味する姿勢も揺らぐことがない。創業当時は県産の地粉を用い、小豆は高梁川上流の成羽[なりわ]の産地まで人力車を乗り継いで買い付けに通ったそうだ。生産量が格段に増えた昨今、地場ものだけでは追いつかず、小麦粉は粘り気の少ない特製のブレンドを製粉メーカーから仕入れ、小豆は粒ぞろいの北海道産を年間を通して使用する。選び抜いた原材料を、伝統の味に仕上げるのは熟練の職人たち。季節によって糖度を変えて餡を炊き、生地の配合を微妙に調整するなど、人の手と感覚で品質を守る。

 国内外の観光客で賑わう「倉敷美観地区」。その入り口に、白壁と倉敷格子の町家が往時の面影を残す「橘香堂 美観地区店」が建つ。この店舗には、「むらすゞめ」の手焼き体験工房が併設されている。倉敷観光コンベンションビューローの会長を務めたこともある4代目吉本豪之[たけゆき]さんが、倉敷を訪れる人へのもてなしの一つとして始めたものだ。自分で作る楽しさと焼きたての味が人気を呼び、観光コースに組まれることもあるという。明治の初年、倉敷に生まれた「むらすゞめ」は、郷土を代表する銘菓となった今も、街の歩みに寄り添いながら、昔ながらの味と姿で人々を出迎える。

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