尾道水道の早朝の風景。市街地と向島を約3分で結ぶフェリーがひっきりなしに往来する。向島には造船所があり、巨大なクレーンが並び立つ。

特集 尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市〈広島県尾道市〉 瀬戸内随一の海運の都

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文豪に描かれた町、映画に映された町

志賀直哉旧居。白樺派の文豪として知られる志賀直哉は、1912(大正元)年11月から約1年間、尾道で暮らし、後の『暗夜行路』となる『時任謙作』を執筆した。

尾道駅近くの商店街の入り口付近に林芙美子の像がある。後に『放浪記』の一節「海が見えた。海が見える。」が一躍尾道を有名にした。

 千光寺山の山麓斜面の密集した家々と、上下に入り組んだ坂道や石段、迷路のように左右に延びる路地の景観は独特の趣がある。見下ろせば必ず海が見える。どこをとっても絵になる。それが尾道だ。そんな尾道には「寺の町」、「坂の町」、「路地の町」ほかさまざまな形容がある。

 「文学の町」も尾道を語る上で欠かせない。尾道の風光明媚な景観は古くから文人墨客に愛されている。千光寺山の山頂から下ると「文学のこみち」という約1kmの遊歩道があり、尾道ゆかりの作家など25基の文学碑が、説明文を添えて設けられている。十返舎一九[じっぺんしゃいっく]、緒方洪庵、頼山陽[らいさんよう]、正岡子規、金田一京助などそうそうたる文人や文化人。

 作家、田山花袋[たやまかたい]の『山水小記[さんすいしょうき]』には「汽船問屋だの、大きな呉服屋などの多い町」と、大正中期頃の豊かな町の点景を伝えている。なかでも尾道を有名にしたのは林芙美子の『放浪記』の一節。「海が見えた。海が見える。5年振りに見る、尾道の海はなつかしい」。1916(大正5)年、芙美子13歳の時に親子3人は行商で尾道駅に降り立った。

 それから19歳までの6年間を尾道で過ごす。そこに書かれているのは小説家を志して上京し、5年振りに帰郷した尾道。芙美子は他に『風琴と魚の町』でも尾道の暮らしを詳しく描いている。白樺派の文豪、志賀直哉も尾道と関係が深い。千光寺から坂を下り、山腹を這うような狭隘[きょうあい]な脇道を辿ると「志賀直哉旧居」がある。三軒長屋の一番東の部屋に志賀直哉は約1年逗留して創作した。

『尾道本通り』は、尾道のメインストリート。海岸に沿って商店街が続く。写真は風呂屋だったビルを活用した土産物ショップ。

向島のフェリー乗り場近くで見つけた「ろ」の看板。和船の櫓をつくる工房だ。今では全国でここ一軒。ご主人の瀬尾豊明さんが手にしているのは、柴又の「矢切の渡し」の櫓。素材は堅牢な「一位樫」。「できる限り注文に応えていくつもり」と答えてくれた。

 『暗夜行路』を構想し、その前身となる『時任謙作』を執筆し、『清兵衛と瓢箪』を書き上げる。『暗夜行路』に尾道の情景が描かれている。

 「景色はいい所だった。寝ころんでいていろいろな物が見えた。前の島に造船所がある。そこで朝からカーンカーンと金槌を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切り人足が絶えず唄を歌いながら石を切り出している。その声は市のはるか高い所を通って直接彼のいる所に聞こえて来た。

 六時になると上の寺で刻の鐘をつく。ゴーンとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰って来る」。(新潮社文庫より)

 「志賀直哉旧居」の縁側にごろりと寝転ぶと、目の前に描写そのままの情景が広がった。かつて千光寺山は全山岩山で、築城の石の切り出しが行われていた。尾道は石工の町で、石畳の坂道も石段もみな尾道ならでは風景なのだ。造船所のドックを見下ろしながら町まで続く急な階段を下った。

市街地と向島を結ぶフェリー。通勤、通学のほか生活の足としてフェリーは欠かせない交通手段。早朝から夜遅くまで休みなく運航。ラッシュ時の風景はいかにも尾道らしい。

かつての海運倉庫をリノベーションした「ONOMICHI U2」。しまなみ海道の尾道のサイクリングの拠点にもなっていて、施設内には、ホテルのほかレストランやショップが並ぶ。

 「文学の町」は「映画の町」でもある。古くは小津安二郎監督の『東京物語』は尾道から始まる。そして、大林宣彦監督の「尾道三部作」「新尾道三部作」も有名だ。尾道出身の大林監督は何気ない尾道の日常の風景を実に魅力的に描き出す。大林作品を含めてこれまでに35本を超える劇場用映画のロケ地になっているそうだ。

 ロケ地を訪ね歩くファンも少なくない。町のあちこちで案内パンフレットを片手に巡る人がいた。夕景の海岸もそんなスポットだ。日没間近の尾道水道をフェリーが行き来する。船着き場で自転車通学の学生が順序よく並んでフェリーを待っている。フェリーが着くと自転車を押して学生たちが次々にフェリーに乗り込んでいく。

 普段の何気ない暮らしが、尾道では映画の1シーンになるから不思議だ。やがてフェリーはシルエットになってオレンジ色に輝く海を渡っていった。

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