岸和田だんじり祭の見せ場の一つ、「カンカン場」での豪快な遣り回し。遣り回しとは、辻や交差点の角をフルスピードで曲がることをいう。

特集 泉州 岸和田

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圧巻の遣り回し、躍動する岸和田彫刻

 岸和田の人とだんじり祭との関わりは半端ではない。傍目には「無我夢中」と、岸和田だんじり会館の松井孝人さんは苦笑まじりに話す。「1年を2日で生きてるみたいなところがあります」。実際、祭りのある9月から始まるカレンダーがあり、幼児の玩具はだんじりの模型、子どもたちは野球やサッカーよりも早く曳き回しを覚えるという。

 本来は岸和田祭と呼ぶべきだが、いつの間にか岸和田だんじり祭が通称となった。その歴史は約270年前に遡る1745(延享2)年。当時は城内にあって御宮[おみや]と呼ばれていた岸和田の総鎮守社・岸城[きしき]神社の夏祭りに、藩主に許されて献灯提灯を揚げたのが起源とされる。当初は獅子舞や芸能などの神興行事を行っていたが、やがて大坂の夏祭りの影響を受け、太鼓台や地車[だんじり]が用いられるようなった。その初期には夏祭りと秋祭りに、さまざまな地車が曳かれていたが、文化文政時代(1804年から1829年)には、秋祭りが主となり、現在に近い岸和田独特のだんじりが曳行されていたと考えられる。

 祭礼の日は例年9月の2日間。だんじりは各町が所有し、15町のだんじりが城に入城し、岸城神社に宮入する。総欅[けやき]造りのだんじりの重量は4トン。これを約500人の曳き手が二本の綱で曳く。綱先は小学生、順に綱中、綱元と子どもも大人も一緒になって曳く。一番の見せ場はなんといっても「遣り回し」だ。

昼の曳き回す「動」に対して、宵には提灯が灯され「静」の灯入れ曳行が行われる。夜の闇に映えて幻想的な曳行だ。(岸和田だんじり会館展示)

各町ごとに法被の意匠は異なる。左は宮入り一番の宮本町、右は五軒屋町。

岸城神社
古来より岸和田の産土神を祀り、岸和田城の築造時に現在の境内が整った。岸和田だんじり祭は、この神社の9月15日の例大祭に伴う神賑(かみにぎわい)行事。

15町のだんじりが宮入し、鳥居前では宮司によって御祓いが執り行われる。

岸和田だんじり会館に展示されている文化文政期(1804から1829年)頃作とされる現存する最古のだんじり。一般的なだんじりと異なり、岸和田城の櫓門をくぐるために屋根が上下する仕掛けが施されている。

「見送り」と呼ばれるだんじり後部正面の「大脇(おおわき)」の彫刻。『三国志』の一場面を彫り込んでいる。

 「遣り回しはフルスピードで角を曲がることを言います。勇壮で豪快、そして何より速くて美しさを極めるのが肝心です」と松井さん。ただし、いつ頃から今のような豪快な遣り回しを行うようになったかについては特定できないようだ。「おそらく昭和になって道が舗装されてからではないでしょうか」と言う。

 土道では遣り回しは難しい。つまり伝統が現代的に進化したのだ。そして「だんじりの命」と、松井さんは展示してあるだんじりのそばに案内してくれた。周囲一面にびっしりと施された彫刻飾り。見事というほかない。なんと緻密、なんと大胆。ただただ感嘆。表情が豊かで、生き生きと躍動感に溢れている。しかも彫刻全体が絵巻物のように物語となっている。

 彫刻飾りは岸和田の各町の心意気と誇りで、互いに張り合う。この「岸和田彫刻」の伝統には各流派があり、現在でも33人の彫刻師がいる。その祖は播州飾磨[しかま](現在の姫路市)の彫刻師に辿り着くといわれる。岸和田木彫会の前田暁彦さんは、その伝統の流れをくむ若手の一人だ。6年前に「木彫前田工房」を構え、名人の親方から独立した。

 「だんじりを通じて、岸和田にこんな素晴らしい彫刻の伝統があることを知ってほしいし、その文化を守っていきたい。世界にも発信したい」と前田さんは話す。工房を後に、城下町を再び散策した。ひっそりと静まりかえっている。あの2日間の爆発するようなだんじりのエネルギーは、この穏やかな町のどこに潜んでいるのだろうか。大阪湾の向こうに夕陽が沈む。岸和田城天守閣の白壁が燃えるように朱色に染まった。


軍紀物語を彫り込んだ、彫刻師・前田暁彦さんのだんじり作品。緻密で風格があり躍動感に溢れる。「岸和田の素晴らしい彫刻文化を守っていきたい」と話す。

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