沿線点描【福塩線】福山駅から塩町駅(広島県)

瀬戸内から中国山地へ。自然を堪能し、山間の歴史的町並みを巡る。

福塩[ふくえん]線は広島県の福山駅から県北の塩町駅までの約78キロメートルを走る。瀬戸内海に注ぐ芦田川に沿って、中国山地の山中に分け入っていく。沿線には自然溢れる景観が続き、この旅では山間の「天領の町」を訪ねてみた。

福山駅のホームからは福山城が望める。

中国山地の渓谷の清涼感を満喫

 白亜の福山城が隣接する福山駅。駅のホームから真近に見える天守閣を後に、列車は備後平野を潤す芦田川に沿って中国山地を目指す。約45分で府中駅だ。かつて国府が置かれた備後国の政治、経済の中心地だった。ここから先は非電化路線となり、ディーゼル列車に乗り換える。下り列車は1日に6本と少ないのだが、「学校のテスト期間中や行事がある時は臨時列車を走らせます」と、駅員さんが教えてくれた。

 列車に乗り込んで、中国山地の奥へと進む。「フォー」、警笛が渓谷にこだまする。「ゴトゴトゴト」、独特のディーゼルの振動が心地よい。緑が深く、車窓のすぐ下を芦田川が流れている。きれいな水がとても清々しい。河佐駅近くの八田原[はったばら]ダムの麓にある河佐[かわさ]峡の自然景観は素晴らしく、秋からは紅葉狩りが楽しめる。

 八田原ダムの底には実はかつての八田原駅が沈んでいる。芦田川流域は瀬戸内に流れる川でも降雨量が少なく、渇水にみまわれることが多く、生活用水の確保のためにダムが設けられた。そのため線路を付け替え、全長約6キロメートルもの八田原トンネルを通した。そのトンネルに入ると列車の窓が突然曇りはじめた。「なぜ? 」すると近くの席のお客さんが「外が暑い日は、いつもですよ。温度差で曇るんです」と説明してくれた。長いトンネルだ。7分ほど経ってやっと景色がぱっと明るく開けた。トンネルを出るとすぐに備後三川[びんごみかわ]駅。山と山に挟まれた素朴な田園風景が広がる。

 列車はさらに北に走り、次の駅は備後矢野[びんごやの]駅だ。ホームに降り立つと、「こんにちは」と、笑顔で迎えてくれたのは駅長の里武三さん。委託で30年駅長を務める里さんは構内でうどん・そば屋を営んでいる。待ち合い室の壁には地元の小学生が描いた絵や手紙が貼ってあって、なんとも微笑ましい。「この備後矢野駅に来て良かったなと思ってもらえる工夫じゃけぇの」と里さん。駅の名物は「福縁阡[せん]そば・うどん」で、値段は“ご縁”にあやかって「555円」。実際、そのご縁でめでたく結ばれた人もいるのだそうだ。

芦田川の清流に沿って、山峡を走る列車。(府中駅から下川辺駅間)

山間部にある備後矢野駅では、駅舎内でうどんやそばが販売される。

備後矢野駅で駅長を30年務める里武三さん。「駅を利用するのは一日30人ほどで、ほとんどが学生さんです。でも、中には名物の福縁阡そばやうどんを目当てに来る人もいるんですよ」と話す。

名物の「福縁阡そば」は、塩餅、きび餅、よもぎ餅の三色の餅が入る。

河佐峡近くにある「三郎の滝」。紅葉の景勝地として知られる。(写真提供:府中市産業活性課)

“上下銀”で繁栄を謳歌した天領・上下町

 備後矢野駅から上下駅まではほんの5分。上下と書いて「じょうげ」。地名の由来ははっきりしないが、江の川水系と芦田川水系の分水嶺の町で、一説には上下に水が分かれるからとされている。この上下町は、世界遺産の石見[いわみ]銀山から尾道まで銀を運ぶ中継地として賑わった宿場町で、江戸時代は天領だった。

 町には代官所が置かれ、金融の町として大いに繁栄した。「町には、今でいう銀行が33軒もあったんですよ」。上下歴史文化資料館の学芸員の守本祐子さんに町を案内してもらった。「銀山と幕府の後ろだての“上下銀”で大変に豊かな町でした」と、守本さん。

 “上下銀”というのは、町の有力商人が代官の委託で銀を資本に行った金融貸付業をいい、上下町は「金融の町」として豊かさを謳歌した。目抜き通りの「白壁の道」を歩くと、納得。白壁やなまこ壁をめぐらした堂々とした造りの銀行、格子やうだつのある立派な商家や町家の佇まいに往時が想像できる。「上下キリスト教会」や「翁座[おきなざ]」という芝居小屋は町のシンボルで、ほかにも明治に建てられた旧警察署の見張り櫓などは昔の姿のまま今に残っている。

 「みんな上下の町が大好きで、古い町並みを残そうと、みんな努力しています。新しいものを作ろうではなく、残して使おうという気持ちです。町並みを大切に守り、残していきたい」と守本さんは胸を張る。上下川に架かる翁橋から翁山を見ると、自然と気持ちが和んでくる。せせらぎの音がして、そよ風が川面を過ぎる。山々は美しい緑だ。一日、ゆっくりしてみたくなる町である。さて、福塩線の終着駅である塩町[しおまち]駅へはさらに中国山地を分け入ること約45分。塩町駅の傍にはこの地の名の由来とされる塩神神社の祠がある。「塩神さん」で親しまれる祠の前の小さな池には、プクプクとわずかに気泡がもれている。通りがかりの人に尋ねると、「昔、ここから塩水が湧いていたらしい」と教えてくれたが、確かなことは分からない。

 福山から塩町まで約78キロメートル。瑞々しい自然と触れ合う福塩線の旅だった。山峡にひっそりと佇む美しい里や町は、ゆったりとした時間が流れていた。

昔ながらの白壁の町並みが今も残っている上下町の「白壁の道」。

塩町駅の近くにある小さな祠の「塩神神社」。

軒の低い建物が並ぶ通りには、白壁やなまこ壁が続く。通りのつきあたり奥には、「翁座」が佇む。

上下歴史文化資料館のみなさん。「どうして山の中の辺鄙な上下町が天領になったのか、正確には分かりません。はっきりしないというところが上下の魅力かもしれません」と話す。

「まぼろしの人形」と言われる「上下人形」は、明治から昭和にかけて作られた土人形。特徴は、つり上がった鋭い眼。

時代と文化を映す建築美

大正時代に建てられた「翁座」は、中国地方随一の木造の芝居小屋。大衆娯楽の中心として大いに賑わった。

 上下町では、江戸期から明治期、大正期に建てられた各時代の貴重な建造物を見ることができる。「翁座」も町を代表する大正期の歴史遺産だ。京都の南座を模した芝居小屋は中国地方で唯一現存する木造の芝居小屋で、回り舞台や天井は当時のまま。現在は閉館しているが、毎年2から3月に催される「上下ひなまつり」では、一時的に公開される。

 上下町の「白壁の道」で一際目立つ建物が、見張り櫓のある「上下キリスト教会」。明治時代の建築で、元は豪商角倉家の金蔵であった。戦後にキリスト教会が購入し蔵は教会に姿を変えた。驚くのは、その敷地。上下町の建物の特徴は「間口は狭く、奥行が深い」点だが、その奥行は外からでは想像できないほどで、敷地の奥行はゆうに50メートル以上はある。実に豪壮なもので、往時の繁栄をうかがわせるに十分だ。教会では、現在も日曜の午前中にミサが行われている。

 旧警察署の見張り櫓も明治期のままの姿で残り、ほかに江戸時代の商家や古い看板を見て回るのも楽しい。こうして江戸から昭和の建物が数多く残り、美しい町の景観をつくっているのも、上下の町の人たちのたゆまぬ保存活動の成果に他ならない。

上下町のシンボル的な建物の一つ「上下キリスト教会」。

明治初期に建てられた旧警察署。見張り櫓は当時のままの姿で残っている。

明治時代に建てられた上下の豪商角倉家の外門。二階には見張り小屋が設けられ、当時の屋敷の威容をとどめている。

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