Blue Signal
March 2007 vol.111 
特集
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出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
花に会う緑を巡る
稲荷駅 駅の風景【稲荷駅】
朱の鳥居が居並ぶ稲荷山を仰ぐ町
京都の南に広がる伏見は
古代からはじまる長い歴史と、
さまざまな顔を持つ町だ。
名水の郷、酒造の町、水の町、城下町…、
そして、町を見下ろす
稲荷山を御神体とする
伏見稲荷大社の門前町でもある。
「おいなりさん」で親しまれる
伏見稲荷大社の界隈を歩いた。
名水とおいなりさんの町
名水が湧き出る伏見の名の起こりは「伏水」。湧き出る良質の中硬水で醸造される清酒は、口当りがまろやかな“おんな酒”として人気が高く、兵庫の灘、広島の西条と並んで伏見は日本三大銘醸地に数えられる酒どころである。

町の西を桂川、そして京都の市街地を貫流する鴨川、琵琶湖疎水が流れ、南側を宇治川に挟まれた水の町でもある伏見は、京・大坂を往来する水運の河港でもあった。随所に史跡・旧跡が残っているのも水路・陸路の要所だったこの町の特徴と性格に由来する。

豊臣秀吉はここに城下町をつくり、晩年、伏見城に隠居した。官軍と幕軍が衝突した鳥羽伏見戦の舞台、また坂本龍馬が伏見の船宿、寺田屋を定宿にしていた話はよく知られている。そうした日本史を彩る数えきれないほどの人物がこの伏見の町に足跡を残している。

そして伏見といえば、「おいなりさん」。伏見稲荷大社は例年正月三が日に250万人以上の初詣客で賑わう全国の稲荷社の総本宮である。
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境内の随所に朱色の鳥居が建ち並んでいる。鳥居は、お願いごとやお祈りが「通じる」ように、また「通じた」ことへの感謝の気持を表して人びとが寄進したもの。
イメージ 伏見稲荷大社の最寄り駅として、また近辺の散策の拠点として、稲荷駅には一年を通じて多くの参拝客や観光客が訪れる。
イメージ 稲荷駅構内に建つランプ小屋。
イメージ 稲荷駅を出ると伏見街道。風情のある町並みがつづく。
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伏見は京・大坂を結ぶ淀川水系の要の地、河川交通の重要な河港だった。運河沿いの公園には、三十石舟や常夜灯を模したベンチが設えられ、市民の憩いの場になっている。
地図
稲の豊作を祈った神の山
奈良線で京都から2つ目の稲荷駅は、大社の表参道につづく駅。伏見街道沿いにある駅舎の内装は朱の柱と白壁の対比が鮮やかなしつらえで、駅を出るとすぐ朱塗りの大鳥居が出迎える。

正面に稲荷山を拝し、山腹の社殿へと緩い勾配の参道がつづく。東山三十六峰の最南端に位置する稲荷山は山全体が御神体だ。社伝によると稲荷大神が鎮座したのは711(和銅4)年。古語では「伊祢奈利[いねなり]」と表し、『山城国風土記逸文』の「稲が生[な]るところ」の記述にちなんで「稲荷」になったという。そもそもは稲作の豊作を司る五穀豊穰の神様である。

創祀したのは渡来人の秦氏[はたうじ]だ。秦氏族は、農耕や治水、土木、機織などの技術をもたらし、6世紀以後、平安京遷都の前に山城国の開拓を進めたことで知られる。その秦氏が氾濫源だった深草(現在の伏見)に広大な田地を拓き、豊作を祈って遥拝したとされるのが稲荷山で、その麓に社を造立し、時代を経て全国に稲荷信仰が広まり、その中心となった。

「おいなりさん」とは、稲荷大神の聖なる使者であり、姿を人目にすることはかなわぬ透明(白)な狐の姿をした神様のことだ。
伏見稲荷大社の豪壮な楼門は豊臣秀吉が1589(天正17)年に造立したといわれる。 イメージ
稲荷山中腹から伏見の町を望む。 イメージ
伏見稲荷大社の北にある名刹、東福寺。臨済宗東福寺派の大本山で、国宝である三門をはじめ、数多くの重要文化財がある。 イメージ
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千本鳥居は請願成就のしるし
現在の社殿は、京の町を焼き尽くした応仁の乱(1467年)の戦禍で一度消失し、その後すぐに修造されたもので、稲荷造という建築様式である本殿は国の重要文化財。

境内は約87万m2の広さで、山中の至る所に祠があり、無数の朱の鳥居が並ぶ参道が迷路のように巡り、山を一巡する「お山巡り」はちょっとしたハイキングだ。そのため、たいていは朱塗りの鳥居が斜面に隙間なく建ち並ぶ、通称「千本鳥居」を通り抜けて奥の院(奥社)に参拝してお参りをすませる。この鳥居は、祈りや願いごとが「通る」、あるいは「通った」ことへのお礼と感謝の意を表して奉納されたもので、江戸時代から広まった慣習という。境内の参道には約1万基もの鳥居がある。

参拝をすませて駅に戻る途中の裏参道には、神具店や土産物店が何軒も軒を並べて賑やかだ。いなり煎餅、いなり寿司、きつねうどん…、そして伏見人形。稲荷山の土でつくられた人形(現在は他所の粘土で焼かれている)は日本の土人形の原形とされ、江戸時代の初め頃から伏見稲荷大社のお土産として門前の店で売られている。

土産物を並べる店々の風情、いなり寿司をおいしそうに頬張る参拝客の笑顔、そして詣でる人びとの思いもまた、江戸の昔も今も変わっていないのかもしれない。
お土産屋が並ぶ裏参道商店街。 イメージ
代表的な伏見人形のひとつ「まんじゅう喰い」。江戸時代に大流行したという。 イメージ
伏見街道沿いにある伏見人形の「丹嘉[たんか]」は江戸時代初期から続く老舗。7代目の主人、大西時夫さんは江戸時代の型を使って伝統の伏見人形をつくりつづける。「京からの参拝道であった街道沿いには50〜60軒もの店がありましたが、次々に廃業されて、昔の型で伝統的につくっているところは一軒です。日本の土人形のルーツですから、伝統文化を保存するという使命感もあります。後世にずっと伝えつづけたいですね」と大西さん。
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