Blue Signal
March 2007 vol.111 
特集
駅の風景
出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
花に会う緑を巡る
Essay 出会いの旅
芳賀 徹
比較文学者、近世近代日本文化史専攻。文学博士。東京大学、国際日本文化研究センター名誉教授、現在京都造形芸術大学学長。『平賀源内』でサントリー学芸賞(81年)、『絵画の領分』で大佛次郎賞(84年)、91年フランス政府学芸オフィシエ勲章、93年明治村賞、97年紫綬褒章など。他に『大君の使節』『渡辺崋山』『與謝蕪村の小さな世界』『詩の国詩人の国』『詩歌の森へ』など、著書多数。
「美しい国」のおもかげ
私は過去15年余り、ほとんど毎週、東京〜京都の間を新幹線で往復している。ときには週に2往復、3往復することもある。その間に京都の国立の研究機関から同じ京都の私立の藝術大学に勤め先が変ったが、それでもこの高価な通勤ぶりは変らない。せめてJRが航空会社なみにマイレージ制度を設けて、何千キロか乗車のたびに一往復ぐらいはただにしてくれるといい、といつも願っている。だが、実現はまだ遠いようだ。

それでも、東京駅や京都駅でホームに立って、煙草を一服したりコーヒーを一杯啜ったりしながら、「ひかり」や「のぞみ」を待つのは、いまになっても心たのしい。お天気のいい日などは、これから2時間余りの完全自由と車窓の眺めへの期待で、浮き浮きとさえしてくる。私はやはり「汽車」の旅が好きなのだ。
東海道新幹線の車窓風景で圧巻なのは、JR西日本の領分に属するのかどうかは知らないが、富士山以上に伊吹山の眺めだ。高さ1,377メートルの豪壮な山容が、関ヶ原の古戦場を前にひろげて、車窓から1キロから2キロほどのへだたりで急に迫ってくる。山が近いから3分間か、5分間か、列車はあっという間にその前を通り過ぎてしまう。だが、春、夏、秋、冬、晴雨にかかわらず、いつ眺めても力強く美しい神話と古歌の山である。西側を石灰採掘のために露骨に削りとられているのが痛々しく、私はかつてこの山を右肩に手傷を負ってなお雄々しく立ちつづける古武将にたとえたことがあった。

数年前からこの伊吹山の車窓風景でもう一つ小さな発見をして、乗車のたびにかならず観察している。京都から東へ向かえば、伊吹山の真正面を過ぎて、トンネルを一つくぐり、次の切通しを抜けてすぐのあたりだ。車窓のすぐ左側に、通り抜けたばかりの山の崖を背にして、小さな茅ぶきの家が一軒立っている。それが小さいだけにいかにも凛々しく、時流に抗して孤塁を守っているという感じで、その前を通過するほんの数秒、私はいつも精一杯の無言の声援を送っている。

あるときは、この家の軒端に日章旗が立てられて風にひるがえっていた。いったい今日は何の旗日だったろうと、手帖を開いてみると、12月23日の天皇誕生日。この茅ぶきの下には頑固に古風な愛国者の老夫婦が住んでいるのにちがいない、と私は想像していよいようれしく、以後いっそう熱心に激励の眼ざしを送っている。最近は屋根の崖側に青いビニールシートがかけられているのが心配だ。
山陽新幹線では、福山の駅に着いたら、ホームのすぐ側が福山城趾で、その石垣の上に桜が満開だったのは、いつのことだったろう。思いがけず、息を呑むような美しさで、いまだに忘れられない。福山といえば阿部侯十万石の城下町。ペリーの黒船の来航という国難に対処して日本を開国に導いた幕府老中阿部正弘もここの殿様だった。その記憶だけでも福山城の桜はひとしお奥ゆかしく思われるが、さらにこの城下町の東北のはずれには神辺という小さな村があって、そこには正弘の先代、正精[まさきよ]侯の時代に菅茶山[かんちゃざん]という大詩人が住んでいた。日本のゲーテといえばこの人、というのが私たちの評価だ。福山はもっとこの漢詩人の文業を大切にし、誇りとしてもよいだろう。

10年ほど前か、広島大学で四日間の集中講義の最後の日、私は学生たちを連れてはじめて神辺を訪ねたことがあった。町並みは残念ながら少々うらぶれた感じだったが、茶山先生の私塾廉塾[れんじゅく]はさいわいにも畑と植えこみの奥にいまもひっそりと立っていた。頼山陽が故郷出奔の後に、1年半ほどここで塾頭をしていたことがあったし、19世紀初頭の日本の詩人、学者や画家たちは山陽道を上り下りすればよくここに立ち寄って、温厚寛雅の師との詩話をたのしんだのである。

 満巷[まんこう]の
 ぜん声[ぜんせい]
 槐影[かいえい]の午[ひる]

 山童
 戸[こ]に沿うて
 香魚[こうぎょ]を売る

せみしぐればかりの夏の昼さがり、槐樹[えんじゅ]の影をたどりながら少年が鮎を売り歩く。茶山がそう詠んだような徳川日本の面影を、私はこの町で学生たちと語りあった。

「美しい国」日本の面影は、まだ各地につつましくひそんでいる。それをたどってJRはいまも日々に走りつづけている。
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