風を受けてゆったりと熊野川を下る「三反帆」。川から眺める風景はまた格別で、舟に乗って「川の参詣道」を実際に体験することができる。

特集 紀州 新宮

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開明の城主、リベラルの系譜

 新宮城跡は熊野川河畔の小山にある。「丹鶴城[たんかくじょう]」とも「沖見城[おきみじょう]」 とも呼ばれ、紀州藩の南の防御の役を負っていた。禄高は3万5千石。微々たる小藩だが実力は「ゆうに10万石以上」だった。熊野の良質な木材、木炭、薪、熊野灘の海産物を廻船に積み込み、大消費地の江戸に直接運ぶ「交易」による経済力だ。

 熊野川には物資を運ぶ川舟が行き来し、河口には江戸に廻漕する大型船が何艘も停泊していた。新宮炭は特に評判で、江戸の年間消費量の相当数を占め、水野家は「炭屋」とあだ名されたという。歴代城主の中でも突出して手腕をふるったのが忠央だった。先鋭的な開明家、進取の気風に溢れ、型破り。

 吉田松陰に「奸[かん]にして才あり、一代の豪なり」と言わしめた傑物で、新宮の発展に尽くした功績は絶大だ。時代の先を読み、耳目を海外に向け、思考は気宇壮大。

新宮城本丸に続く石垣と石段

新宮城跡の大手門から入った石段。要所に巨大な岩が積まれ、切込み接ぎ(きりこみはぎ)と呼ばれる江戸初期の石組み。

本丸跡から熊野灘を望む

本丸跡からは新宮の市街と熊野灘が見渡せる。別名「沖見城」とも呼ばれ、熊野灘沖を行く船々を監視したという。

新宮城「水ノ手郭」

熊野川に面して設けられ、ここに上流から舟で運ばれた熊野炭が荷降ろしされた。軍事的機能と物流機能の炭納屋が併設された全国でも珍しい郭。

『紀州新宮城絵図』(部分)

江戸時代中期のもので、絵図の上部(北)には熊野川が流れ、本丸から二ノ丸、水ノ手郭までの城郭全域が描かれている。(和歌山県立博物館蔵)

今年の夏の「熊野大学夏季特別セミナー」は、作家の中沢けい氏や、中上健次の娘である作家の中上紀氏ら内外の文化人が講師となり、紀伊半島と朝鮮半島の芸能や文化、文学などをテーマとして開催された。

 洋学に学び、海外の知識や技術を摂取し、洋書百巻余りを翻訳させ、水戸光圀の『大日本史』にも並ぶ『丹鶴叢書』を刊行。早くに洋式軍隊を編成し、洋式軍艦も建造し大砲も製造した。林業や製紙業を興すなどさまざまな事業に取り組み、耕作地が乏しい新宮の城下を豊かにした。

 明治、大正、昭和とリベラルとモダニズムは継がれ、「他人と同じことはしたくない」という「反骨と進取」の土壌として忠央の気概は残った。「鳩ぽっぽ」など日本で最初の口語体の唱歌を生んだ東くめ、日本のジャーナリズムの先駆となった柳川春三など多才な人物を輩出している。西村伊作は大正モダンを実践した文化人で、日本で初めて男女共学を唱え、東京で文化学院を創設した。新宮の自邸は西村自身が設計した洋館で、与謝野晶子や陶芸家の富本憲吉、バーナード・リーチなどの著名人たちが集まる一大文化サロンともなった。

 新宮繁栄の面影は、地震による火事で失われてしまったが、その精神は現在、“もの申す”作家、故・中上健次に継がれ、生前「熊野学」の発信拠点として立ち上げた『熊野大学』でこう語っている。「熊野から目を向けるべきはニューヨークであり(略)、世界なんや」。中上健次亡き後、その遺志を継いだ仲間によって熊野大学は23年目を迎え、毎回、著名な文化人を招いてセミナーを開催。辻本さんもメンバーで地元誌 『くまの文化通信』に「熊野反骨の系譜」を連載している。

 旅の終わりに熊野川に舟を出してもらった。かつて物資を満載して川を行き交った熊野独特の川舟の「三反帆[さんだんぼ]」。道路のない時代、流域に暮らす人の大切な交通手段だった。「熊野川の文化を多くの人に体感してもらいたくて」と、三反帆を再現したのは『熊野川体感塾』代表の谷上嘉一さんだ。熊野川を滑る三反帆の舳先に、新宮城跡は昔日の残照のように佇んでいた。

『熊野川体感塾』代表の谷上嘉一さん。三反帆のほか御船祭の舟も谷上さんの作。「川舟体験を通じて自然の大切さ、熊野川と人の暮らしに関わる歴史と文化を知ってほしい」と話す。

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