「熊野三山」の一つである熊野速玉大社は、「熊野新宮権現」とも呼ばれる。新宮は、断崖絶壁の神倉山のゴトビキ岩に降り立った熊野の祖神を速玉大社に遷宮したことによるもので、神倉山の「元宮」に対して「新宮」という。

特集 紀州 新宮

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反骨の風土、進取の文化

 熊野・新宮はまことに遠い。紀伊半島の大山塊の果てにあって、その先は太平洋だ。熊野の語源には「神が隠る所」のほか諸説あるが、「隅、辺境地」もその一つだ。現在でも「大阪からは、新幹線で東京へ行くほうが近い」と笑って話すのは、新宮市立佐藤春夫記念館館長の辻本雄一さんだ。

 佐藤春夫は大正、昭和に活躍した新宮出身の文豪。「秋刀魚の歌」で有名な詩人が「空青し 山青し 海青し」と讃えた新宮は、山と海がせめぎ合う熊野川河口のわずかな平坦地にある。耕作する土地は乏しく、山が嶮しく迫り、海岸には烈風が吹きつけ、荒波が打ち寄せる。

 新宮は江戸期、紀州藩領の城下町だったが、町の歴史はそれよりはるかに遡る。郷土史家でもある辻本さんは「記紀以来」と話す。『古事記』『日本書紀』に記され、神武東征の上陸地も新宮の海岸だと推定されている。平安期以後、熊野三山の一つ、熊野速玉大社の鳥居前町として発展した。

熊野の神々が坐す山々をゆったりと流れる熊野川。この風景は「川の参詣道」として世界遺産に登録されている。

 新宮はそもそも熊野速玉大社に因む。神代の頃、町の背後にそそり立つ神倉山のゴトビキ岩に熊野の祖神が降臨し、その神を新宮に遷宮。その新宮が熊野速玉大社である。松明を持つ男たちが石段を駆け下りる勇壮な「お燈まつり」は神倉神社、そして「御船祭[みふねまつり]」は熊野速玉大社の縁起を伝える大祭である。

 熊野速玉大社と熊野本宮大社、熊野那智大社を総称して熊野三山と呼ばれ、熊野別当[べっとう]がこの三山を統治した。この別当の系譜に、丹鶴姫[たんかくひめ]と新宮十郎行家の姉弟がいる。父は源為義、母は別当の娘。辻本さんによれば「二人は中世の新宮を語る上で欠かせない人物」。

 男勝りの丹鶴姫は「新宮が生んだ最大の女傑」と言われ、別当を継いで熊野水軍を統率し、源平の合戦では源氏方につくという大きな役割を果たした。一方の新宮十郎は、山伏の姿で東国武士の間を渡り歩いて源氏の挙兵を説き、平家討伐に立ち上がらせた功労者だ。頼朝をしのぐ政治家の資質を持ち、 鎌倉でなく、新宮に幕府が開かれたかもしれないほどの逸材だったという。

 辺境の地にありながら、二人は天下の情勢に大きく関わっていた。ここに新宮の風土の特徴が見えてくる。実は熊野参詣道や海路を通じて「京」と深くつながり、中央の新しい文明・文化が常に流入したのだ。「熊野詣で各地から人が集まり、さまざまな文物をもたらし、歴史的に多彩な文化が交わった。新宮はいろいろな人が往来してつくられた町」というのである。

 そして江戸時代、新宮はそれまで以上に人と物が盛んに行き交い、大いに繁栄する。戦国の世が終わり、各藩は競って産業振興に乗り出すが、新宮藩は海上ルートで江戸と直接つながり、多藩も羨む富裕の藩になる。そこで培われたのが中央に「負けてなるか」という反骨と、「水野の殿様ゆずりの新しいもの好きで、他人と同じことはしたくないのが新宮人の気質」。

 辻本さんが言う「殿様」とは、新宮城9代城主・水野忠央[ただなか]である。

王子ヶ浜の外れにある御手洗海岸。神武天皇が上陸の際、この海岸で手を洗った故事から付けられた地名とされ、この断崖の上を熊野古道の高野坂が通っている。

新宮周防守屋敷跡「本廣寺」

新宮十郎行家の末裔・周防守行栄が、新宮下熊野地からこの地に移り館を構えた。周辺には寺院が多く、寺町と呼ばれる。

佐藤春夫記念館館長の辻本雄一さん。「新宮はいろんな文化、いろんな人が出入りしてつくられた多層的な文化です」と話す。

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