Blue Signal
November 2006 vol.109 
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特集[人情の機微を語り演じる「文楽」] 道頓堀に花咲いた人形浄瑠璃
大夫、三味線、人形遣いの三業一体[さんぎょういったい]の至芸
浪花の人情機微を描いた近松の世話物
江戸時代、道頓堀の川端に一つの文化が花咲いた。
人形浄瑠璃ー義太夫節の語りと三味線に合わせ、
舞台上で人形が生き生きと演技する。
演じられる人情機微、悲喜劇はたちまち民衆の心をとらえた。
やがて文楽という名で日本が誇る舞台芸術として
海外でも喝さいを浴びる。
大坂で生まれ受け継がれてきた文楽のその魅力に触れる。
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『浪花名所図会〈道頓堀の図〉』。戎橋を渡った道頓堀の南岸は、芝居名代五株が公認され、義太夫(人形浄瑠璃)、歌舞伎、見世物などで賑わった。戎橋の上をさまざまな人が行き交い、川岸に連なる芝居小屋の屋根越しに幟や看板が描かれ当時の活況が伝わる。(大阪府立中之島図書館蔵)
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赤い灯、青い灯を川面に映す道頓堀川は大阪を代表する景観だ。その道頓堀川に架かる戎[えびす]橋の南詰めは、劇場や料亭、娯楽施設が立ち並び、行き交う人々の活気に包まれる。江戸の初期、1684(貞享元)年に大坂天王寺村の竹本義太夫がここに竹本座を立ち上げ、人形浄瑠璃を披露した。出しものは近松門左衛門作『世継曽我[よつぎのそが]』。竹本座はたちまち観衆の心をつかみ、喝さいを浴びた。以来、320余年の間、大阪の旦那衆や民衆に愛された人形浄瑠璃は、日本の伝統芸能の域をこえ、「文楽」の名で総合舞台芸術として国際的に高い評価を受けている。

人形浄瑠璃と文楽は同意語だが、大阪の伝統芸能として発展したものが文楽で、現在では人形浄瑠璃を指して一般的に「文楽」と呼ばれ、海外でも「BUNRAKU」として親しまれている。歴史の中での登場は人形浄瑠璃が先である。人形浄瑠璃は、大夫[たゆう]の語りと三味線の音曲に合わせて人形遣いが人形を巧みに操って演じる芝居を指し、人形、浄瑠璃、三味線のそれぞれに歴史的な系譜がある。手足の動くからくり人形は高麗から伝わったとされ、人形浄瑠璃の人形遣いの源流は西宮神社の境内などで人形芸を披露していた傀儡師[くぐつし](人形舞わし)にさかのぼる。

浄瑠璃は、三河地方に古く伝わる浄瑠璃御前(姫)と牛若丸の恋物語『十二段草子』に由来し、その語り方には諸流派があったようだが、琵琶法師が琵琶を手に平家物語を語ったように、三味線で物語を聞かせるのが浄瑠璃だ。

三味線の祖は中国の三絃[さんげん]、沖縄の三線[さんしん]を経て、改良を加えて三味線となり、さらに改善が重ねられ浄瑠璃では太くて低い音、響きが力強い太棹[ふとざお]三味線が用いられる。そうして人形芸も浄瑠璃も別々に発展を遂げながら庶民の娯楽として親しまれていたが、江戸時代初め頃には、西宮神社に仕える傀儡師が三味線を伴奏とした浄瑠璃語りに合わせて人形を操るようになった。

ここに人形芸と浄瑠璃は融合し、人形浄瑠璃となった。時代はやがて乱世から江戸へと移り、世の中が平穏となり遊興を求める大衆の間で、より娯楽性と演劇性を増した人形浄瑠璃は評判となる。そこに革新的に登場するのが竹本義太夫だ。義太夫は浄瑠璃に「義太夫節[ぎだゆうぶし]」という新境地を拓いた。抑揚のある情感豊かな節回し、ときに腹の底から搾り出すように唸り、大坂弁での語りは大衆の琴線に触れた。こうして道頓堀に義太夫が旗揚げしたのが竹本座である。竹本座の人形浄瑠璃は歌舞伎を凌ぐ人気を博し、道頓堀周辺には竹本座のほかにも芝居小屋が軒を並べ、競うように幟を何本も連ねたという。大興行主・竹田出雲[いずも]や近松門左衛門、井原西鶴などの才能豊かな戯作者を得て、人形浄瑠璃はまさに時代を風靡した。

ところが江戸元禄の浮世も過ぎると、全盛期には9座を数えた小屋も、幕府の倹約政策や大火で廃業、焼失し、人形浄瑠璃は凋落への道を辿る。散り散りとなったその後は、社寺の境内や小さな寄席で細々と興業していた。そんな時代のなかに現れたのが淡路島出身の浄瑠璃語り初代植村文楽軒[ぶんらくけん]だ。大坂高津の地に「大坂浄瑠璃稽古所」を開いた文楽軒は、衰退しつつあった人形浄瑠璃を復興した中興の祖と言われる。続く後代の文楽軒も人形浄瑠璃の発展に尽力した。人形禁止令をも厭わず「文楽座」を名乗って神社の境内などで興行を続け、明治の初めには「官許人形浄瑠璃文楽座」の看板を掲げ人形浄瑠璃の明かりを灯し続けた。今日、人形浄瑠璃の代名詞として「文楽」と称されるのは、大坂で育った人形浄瑠璃の伝統芸能を危機から救った代々文楽軒の功績によるところが大きい。

文楽はいまでは世界無形遺産に指定され、大阪日本橋には日本唯一の文楽専用劇場「国立文楽劇場」が1984(昭和59)年に誕生した。そこは、竹本座が旗揚げした道頓堀へも文楽軒が開いた稽古所へも歩いてすぐの場所である。
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『浄瑠璃大系図』。浄瑠璃の元祖6人。右手前が近松門左衛門、その後ろに竹本義太夫が描かれている。(大阪府立中之島図書館蔵)
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『竹豊故事[ちくほうこじ]』。1756(宝暦6)年刊。竹本座と人気を二分した豊竹[とよたけ]座の活況を描いている。(園田学園女子大学近松研究所蔵)
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『摂津名所図会〈道頓堀芝居側〉』。画面右下から戎橋、太左衛門橋で、渡った南岸には芝居小屋の幟が立ち並び、多くの行き交う人々が描かれ活気を呈していたことがうかがえる。(大阪府立中之島図書館蔵)
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大正時代に描かれた御霊神社と文楽座。客席は750席あり、大型ランプ7基で舞台を照らしていた。商家が集まる船場[せんば]に近く、大店の旦那衆の社交場や商談の場としても利用された。(写真提供:御霊神社)
道頓堀に花咲いた人形浄瑠璃
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『卯月紅葉[うづきのもみじ]』。1706(宝永3)年の『曾根崎心中』竹本座の初演を描いたもの。竹田出雲や近松も舞台に出ている。(東京大学総合図書館蔵)
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植村文楽軒が開いた大坂浄瑠璃稽古所跡(大阪市中央区日本橋)近くに立つ文楽の碑。人形浄瑠璃の黄金期を築いた竹本座と豊竹[とよたけ]座の紋が彫られる。
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国立文楽劇場。文楽の公演はもちろん、研修生を募り後継者の育成にも力を注いでいる。
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道頓堀川の夕景
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