Blue Signal
November 2006 vol.109 
特集
駅の風景
出会いの旅
うたびとの歳時記
鉄道に生きる
花に会う緑を巡る
うたびとの歳時記 芯から身体を暖めてくれる鍋焼は、冬になると恋しくなる味。具の豊富さも魅力のひとつである。
小ぶりの土鍋に仕立てられた
熱々の鍋焼は寒さがしみる季節の定番。
ぐつぐつと煮立つ鍋の
白いうどんをつつき、立ち上る湯気や
出汁の香りとともにすするのが醍醐味だろう。
俳人西山泊雲[にしやまはくうん]の
句に詠まれた冬の風物詩を
うどんの歴史や文化とともにたどってみた。
客観写生を自らの個性とする
泊雲は、1877(明治10)年兵庫県氷上郡竹田村(現・丹波市市島町)で造り酒屋を営む西山家の長男として生まれる。本名を亮三といい、少年時代は漢詩を習う文学少年だった。丹波という山峡の地で、先祖からの酒造業を継がなくてはならない重圧からか、少年時代には家出を繰り返す。その度に父親に連れ戻され、挫折感に苛まれながら長らく過ごしていた。そんな泊雲の転機となったのは、正岡子規の辞世の句であったという。自分の死をも客観的に見つめられる俳句の力に感動し、1903(明治36)年、弟野村泊月の橋渡しによって高浜虚子に入門。その後は、俳誌『ホトトギス』をはじめ、新聞の俳句欄にも毎日投句するなど熱心な作句活動を続け、泊月と並び「丹波二泊」と称されるまでになった。「写生ということに重きを於いて、目に見た事を忠実に写す点にその長所がある」と、『進むべき俳句の道』(1918(大正7)年刊)で虚子が評しているように、泊雲は生涯虚子の説く客観写生の大道を歩み、丹波の田園生活の中から生まれた素朴な写生句を作り続けた。『ホトトギス』(1939(昭和14)年5月号)雑詠欄に掲載された冒頭の句にも、ある寒い日の情景がいきいきと描写されている。
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家業を怠ることなく、生涯を地方の一俳徒として励んだ泊雲。門人の育成にも情熱を注ぎ、関西俳壇の基礎を作り上げた。(写真提供:西山酒造場)
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『霜夜の鐘十字の辻筮[つじうら]』(1880(明治13)年刊)には、鍋焼を売る屋台の夜売りのようすが描かれている。(『そば・うどん百味百題』より/柴田書店)
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「吾妻」の厨房の要は、昔ながらの鉄製の羽釜。朝一番にこの釜で出汁を仕込んだ後、うどんの湯がき、湯煎などに使用される。
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出汁は丹波立杭焼の一升徳利に小分けして保存される。香りが抜けにくく、煮詰まらないのが利点という。
鍋焼ときめて暖簾をくぐり入る 泊雲
包丁文化が生んだ日本独自の麺
うどんは、日本を代表する麺のひとつである。小麦粉を練った生地を麺棒で平らに延ばし、折りたたみ包丁で切り込み、きれいに麺状にする技術は日本独特のものであり、伝統食品にもあげられる。その起源は、古代から小麦などの粉食文化が発達していた中国にあり、奈良時代に遣唐使が持ち帰った唐菓子[からくだもの]が原形と考えられている。唐菓子は、米・麦・大豆などの粉を練り合わせ、蒸したり揚げたりしたもので、当時宮廷や寺社の供物として用いられていた。その中の「索餠[さくべい]」「飩[はくたく]」「飩[こんとん]」と呼ばれるものが、今日の麺類と密接につながっているのだという。「索餠」は麦縄[むぎなわ]ともいい、小麦粉で作った縄のように長い食品という意味を表す。このことから素麺の前身とみられ、日本最古の麺とする説もある。一方、うどんは、こねた団子を手で薄く伸ばした「飩」、餃子やワンタンのように餡を包んだ「飩」から発展したと考えられている。うどんの語源も、この「飩」が熱く煮て食すところから「温飩[うんとん]」になり、後に「饂飩[うどん]」と書き改められたとするのが定説のようだ。

当初はいわゆる麺の形状とはかけ離れていたが、室町時代になると練った塊を麺棒で延ばす技術が進歩し、それを包丁で細く切った「切り麦」が登場する。この「切り麦」がうどんの元祖と考えられ、形・製法ともに現在とほぼ同様のものが作られるようになった。そして、江戸時代には『料理物語』(1643(寛永20)年刊)という料理本の中でその製法が詳しく解説されるほど、広く普及していった。
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土鍋に息づくなにわの知恵
鍋焼とは、もともと鳥肉、芹、慈姑[くわい]などを煮て土鍋のまま食べる料理のことであった。それがいつの頃からかうどんを入れるようになり、今日では鍋焼といえば鍋焼きうどんをさすようになった。江戸末期の大坂ではすでに屋台の夜売りで流行していたという。1865(元治2)年の正月に上演された『粋菩提禅悟野晒[すいぼだいさとりののざらし]』という芝居に、「大坂四天王寺山門前でえんどう豆を売っていた商人が、流行の鍋焼きうどんに押されてしまい、商売替えをした」というくだりがあり、これが鍋焼きうどんという言葉の最初の記録とされている。

古くから物資の集積地として栄えた池田に、大阪で一番古いうどん屋「吾妻[あづま]」がある。1864(元治元)年の創業は、鍋焼の登場とほぼ時を同じくする。6代目にあたる巽正博さんによると、創業間もない頃から、鍋焼は品書きのひとつであったという。この店の名物は、「ささめ」という細うどんであるが、鍋焼には一般的な太さのうどんを用いる。昆布やかつお、うるめなどの削り節から取るこだわりの出汁に、自家製の餅やえび、卵、青物などを添えて仕上げる特製の鍋焼は、滋養にも優れている。熱々のうどんは風邪の引き始めによいとされ、戦前の吾妻では頓服薬を常備し、うどんと一緒に販売していたそうだ。保温性に富む土鍋仕立てのうどんは、冬を息災に暮らすための庶民の知恵から生まれたのかもしれない。
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創業の頃から伝わるという行燈には、うどんの品書きが記され興味深い。
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