指揮者。京都市生まれ、京都市立芸術大学卒業後、レナード・バーンスタイン、小澤征爾らに師事。パリ管弦楽団、ロンドン交響楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団など、欧州の名門オーケストラに多数客演を重ねているほか、10年間音楽監督を務めたウィーンのトーンキュンストラー管弦楽団では名誉指揮者に就任。国内では兵庫県立芸術文化センター芸術監督、新日本フィルハーモニー交響楽団音楽監督、シエナ・ウインド・オーケストラ首席指揮者、「サントリー1万人の第九」総監督などを務める。著書に『棒を振る人生〜指揮者は時間を彫刻する〜』(PHP新書)など。モンブラン国際文化賞(2003年)、文部科学大臣表彰(2024年)、外務大臣表彰(2025年)などの受賞歴がある。
京都は太秦[うずまさ]の、小さな商店街の中で育ちました。家族で出かけるときの移動手段は市バスか市電か当時の国鉄。1970年の大阪万博の時も、移動は列車。列車に乗ってどこかに遊びにいくというのは、当時の僕には大きな出来事でした。なかでも、最寄り駅の山陰本線花園駅から母親の実家がある亀岡まで、おじいちゃんとおばあちゃんに会いにいく列車の旅は、幼い僕にとっては大きな旅でした。保津峡を通り抜けると、亀岡の平野がパッと広がるあの景色。当時はまだ機関車でしたから、窓を手で「ガッチャッ」と開けて、家族向かい合わせに座ってみかんを食べたりおにぎり食べたり…。
小学生の頃、先生の薦めで作曲コンクールに応募したことがあります。課題曲のタイトルは『デゴイチ』。そう、あの蒸気機関車です。歌詞もすでに決まっていて「白い煙をモクモクはいて、デゴイチは進む…」という内容だったのを覚えています。蒸気機関車がテーマなので、ほとんどの子どもがマーチのような力強い曲を書いたと思うんですが、僕が書いたのは「ワルツ」。デゴイチはメカとしても好きでしたが、子どもながらに美しい機関車だと思いましたし、なにより、母親が握ったおにぎりを食べながら家族で機関車に乗るあのワクワク感やフワフワ感は、僕にとっては「ワルツ」だった。ところが、先生からは「どうしてこんな曲書いたの!?」と言われるくらい大不評。残念ながら、コンクールに提出されたのかどうかも覚えていないのですが、列車の中の風景や列車の中で過ごす時間というのは、自分の人生のアルバムに綴られていく、いい思い出が詰まっています。
最近では、北九州の小倉を拠点にご縁ができました。新幹線小倉駅から電車で30分くらいのところにある街のトークショーに呼ばれた際、地元の中高一貫校の管弦楽部が歓迎演奏をしてくれたんです。歓迎演奏は普通なら数分で終わるのですが、始まったのは45分もある超大作、ブラームスの交響曲第1番! 了解を得て、途中から僕が指揮台に立って地元の人たちの前で練習を始めました。「また学校に遊びにいくね」と伝えると「佐渡さんと演奏会がしたい、ベートーヴェンの『第九』をやりたい」と言う。僕はボランティアで引き受けると同時に、高校生たちにある条件を出してプロジェクトが進んでいきました。そこからはもう大変! ヨーロッパから帰国して成田から直接北九州に飛んだこともありますし、芸術監督をしている兵庫県立芸術文化センターでオペラを演奏した後、劇場を出て新幹線で小倉に移動、翌朝から生徒と練習して、また兵庫に戻ってオペラを演る、という時期もありました。本番9カ月前に迫っても担当の先生は顔真っ青、生徒たちも申し訳なさそ〜にしているような状態。でも、ティーンエイジャーって、人生の中でフィジカルもメンタルも最強の時期。奇跡を起こす年代だと僕はずっと思っていました。このプロジェクトを進めるにあたって出した「地域に音楽の喜びを伝えること」「ティーンエイジャーが世の中を動かすことを示す」などの条件も、歓迎演奏の日から目を輝かせていたこの子たちだったら叶えられる、この子たちには僕の思いが響くはず、そう思ったんです。途中コロナ禍に見舞われ、最初に在籍していた部員らは卒業してしまいましたが、昨年やっと、6年越しに「第九」の演奏会が小倉で実現しました。地域企業の支援を受け、街の大人も大勢合唱で参加。2,000席の満席の観客が演奏後総立ちでした。これまで数多くの『第九』を振ってきましたが、間違いなく記憶に残る、まさに奇跡の演奏でした。
国内の移動では今も、なるべく列車に乗っています。時間に余裕ができたら、計画を立てない列車の旅をしてみたいと、友達と前から話をしているんです。お酒を飲んで、眠い時は寝て、「ここの駅ええ感じやな」ってところで降りて…。新幹線もいいんですが、できればやっぱり僕はローカル線、がいいですね。

























