
日野町の中心駅である根雨駅には、特急「やくも」の約半数が停車する。ホームに出場した和田は、進行の安全を確認した後、出発の合図を送る。
鳥取県の南西、宿場町の風情が残る日野町には、伯備[はくび]線における県内唯一の有人駅がある。大正時代の木造駅舎が開業時のままに残る根雨[ねう]駅。駅長を務める和田は、人口減少が進む地方路線の課題に向き合い、駅を中心にした町の活性化に力を尽くす。

駅長は地域との接点づくりも担う。ホームで出会った住民とは気軽に挨拶を交わし、何でも話せる関係を大切にする。
和田は、1978(昭和53)年、旧国鉄に入社した。幼い頃から列車を見れば手を振っていた鉄道好きで、「車掌になりたい」という学生時代の目標が入社の動機だったと話す。当初は、米子駅を基点に周辺の駅を回り、貨物車両の入れ換え作業を担当。「きっぷ切り」などの改札業務にも携わる中、通信教育で学びながら車掌になるための準備に励んだ。社内試験に合格したのは1983(昭和58)年。配属された鳥取車掌区では、主に山陰本線や因美[いんび]線の普通列車、貨物列車に乗務し、車掌としてのスタートを切った。
その後、異動になった米子車掌区では、初めて特急「やくも」に乗務した。「憧れの白い制服を着て特急の車掌を務めた日のことは、今でも鮮明に覚えています」と振り返る。2000(平成12)年〜2001(平成13)年の1年間、大阪車掌区に出向した際には、乗客の多さに戸惑いながらも、列車の到着・出発時のホームの安全確認をはじめ、車内アナウンスの声の強弱や笑顔での接し方を工夫するなど、お客様対応にも全力で臨んだ。その姿勢が認められた和田は、寝台特急「日本海」や急行「きたぐに」、「銀河」といった列車の車掌にも抜擢され、乗務経験を積み重ねた。

待合スペースには町民手作りの木製ボードが設置され、イベントの案内などを掲示して町の賑わいづくりに役立てている。
そんな和田に人生の転機が訪れる。2005(平成17)年3月21日、勤務中に頭痛に見舞われ病院を受診。検査の結果、脳血管に異常が見つかり、緊急手術となった。早期治療が功を奏し、約1カ月後には無事退院の日を迎えたが、その日を境に大きな進路変更をすることになる。「私が退院した4月25日、当社は福知山線において重大な脱線事故を惹き起こしました」。多くの尊い命が失われた事故の当日、命を救われた自分は生還することができた。自宅療養期間中も、和田はそのことの意味を考え続けたという。「鉄道の安全のために今できることを始めなさい。おこがましいですが、神様からそう言われているように思えたのです」。
職場復帰を果たした和田は、安全への意識を育み広めていくため、指導職に就くことを決意する。社内試験を経て2006(平成18)年6月からは係長となり、車掌見習いからベテラン車掌まで、米子車掌区全員の指導育成にあたった。「基本の積み重ねが安全に繋がります。まずは、基本動作を徹底させること。列車火災が起きた場合など、異常時の行動を考えさせる訓練にも注力しました」。

駅舎・トイレの美化から駅業務までを和田を含めた3名体制で行う。駅係員の勤務時間の管理も駅長業務の一つだ。
およそ10年間、車掌の指導・育成に携わった後、和田は定期異動で車掌区を離れることになった。駅長として赴任したのは島根県の宍道[しんじ]駅。沿線人口の減少とともに有人駅が減り、寂しくなる地方路線の現状に触れ、鉄道の駅の役割について考えるきっかけとなる。町の活性化を模索する中、朗報が届く。宍道駅が2017(平成29)年6月に運行を開始した寝台列車「TWILIGHT EXPRESS 瑞風[みずかぜ]」の停車駅に選ばれたのだ。和田は、地域住民とともに受け入れ準備に奔走。早朝の駅に子どもたちやお年寄りが集まり、乗客やクルーを出迎える“おもてなし”活動は、今も町の恒例行事になっている。
現在の根雨駅に着任したのは2022(令和4)年。和田はここでも、駅を中心とした町の賑わいづくりに取り組んでいる。沿線には「撮り鉄」と呼ばれる熱心な鉄道ファンが多く訪れる。特急「やくも」の旧型車両381系のラストランを控えた昨年は、増え出した鉄道ファンへの対応も重要な任務となった。「駅長目線ではなく、鉄道を愛する同じ目線で声をかけていきました」。撮影ポイントを巡回し、安全のためのルール遵守を呼びかける地道な活動を続けるうち、住民とのトラブルや撮影マナーも改善。町には活気が生まれたという。和田は、駅の使命を心に留め、地域に寄り添う。
執筆:2025年5月