エッセイ 出会いの旅

伊原 薫

1977(昭和52)年大阪府生まれ。鉄道ライター・カメラマンとして『鉄道ダイヤ情報』『鉄道ジャーナル』「Yahoo!ニュース」などの雑誌やweb媒体で執筆する一方、テレビ番組への出演や監修、イベントやグッズの企画、公共交通とまちづくりに関するアドバイスなど、幅広い分野で活躍する。京都大学大学院の都市交通政策技術者。著書に『大阪メトロ誕生』『「技あり!」の京阪電車』『国鉄・私鉄・JR 廃止駅の不思議と謎』(共著)など。

「鉄道がつなぐ人の縁」

 こういう仕事をしていると、「伊原さんは、何がきっかけで鉄道に興味を持ったのですか?」とよく聞かれる。自分でも何度か思い返したのだが、物覚えがあまりよろしくないこともあって、そのきっかけは全く覚えていない。おぼろげながら、自宅の最寄り駅である東海道本線千里丘駅の線路際で、母親と電車を眺めていた記憶があるので、おそらく「物心がついた時から」ということになるのだろう。弁天町の交通科学博物館(当時は交通科学館だった)や梅小路蒸気機関車館には何度となく行っており、弟と一緒に写った写真も残っているが、弟は鉄道には一度も興味を示さなかった。ちなみに、両親が鉄道好きだったわけでもなく、いわば私は“突然変異”。人の興味とは面白いものである。

 小学2年生の夏休みには、名古屋にあった祖母の家へ初めて一人で向かい、以来それが長期休みの恒例となった。「一度通ったルートは二度通らない」がマイルール。デビュー直後の「スーパー雷鳥」でパノラマグリーン車に乗ったり、夏休みの自由研究を兼ねて友人と新大阪発新宮行の夜行快速列車に乗ったり(自由研究のテーマは「夜行列車について」だったと思う)と、今思えば貴重な経験をしたものだ。とりわけ印象に残っているのは、関西本線を経由した時のこと。私が乗車したのはキハ35系で、そもそもロングシートの普通列車にトイレが付いているということが新鮮だったのに加え、トイレの和式便器から地面が見えた時の驚きは、今も鮮やかに覚えている。

 そして、こうした旅の中でさまざまな人にめぐりあうことができた。前述の夜行快速列車に乗った友人のF君とは、中学時代に関西本線の開業100周年を記念するイベント列車の中で知り合った。同じころ、岐阜県の樽見鉄道でJR西日本のC56形蒸気機関車が運転された時には、岐阜市内に住むM君とも意気投合し、しばらく電話や文通という形で交流が続いた。高校生になるとそれぞれのフィールドが忙しくなり、いつしか疎遠となってしまったが、数年前に運命の再会を果たした。きっかけは、私が執筆した記事を見てSNSで検索し、そこから送ってくれたメッセージ。インターネットは情報だけでなく、人の縁も探し出してくれるようだ。考古学者となったF君は、彼の地元・寺田町駅で古い駅名標が発見された時に、その時代考証を手伝ってくれた。M君はなんと、私が寄稿しているwebサービスの責任者。これも、まことに面白い縁である。

 私が人生で師と仰ぐIさんと出会ったきっかけも、もちろん鉄道だった。国鉄に就職し、JRを経て故郷の明知鉄道に転籍したIさんは、その多彩なアイデアと抜きんでた行動力でローカル鉄道を盛り上げていた。当時まだ私はただの鉄道ファンだったが、さまざまな意見に耳を傾け、「自分がやらなきゃ誰がやる」と率先して行動する姿に敬服した。

 Iさんはよく、「鉄道は、人や地域を必ず元気にできる」という言葉を口にしていた。鉄道は単に乗客を運ぶだけではない。適度に体を動かすことで健康な体づくりにつながり、鉄道が話題となることでその地域のPRにもつながる。そして何よりも、そこに線路があるだけで人々の心の支えになれる。各地でこれまでの常識を超える規模の災害が起こっているが、そうした地で被害を乗り越えて走る列車の姿に、どれほど多くの人が励まされたことだろうか。「鉄道には、どえらい力があるんだわ。」

 師が亡くなったのは、私が物書きとして活動を始める少し前のことだった。あれからもうすぐ7年になる。師は今の私を見て、昔のように笑顔を見せてくれるだろうか。鉄道が人をつなぎ、そんな人々が鉄道を支え、支えられる。ぐるぐると回る縁を感じながら、今日も私は鉄道の楽しさと大切さを発信してゆく。師の想いを胸に。

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