エッセイ 出会いの旅

村上典吏子
鎌倉生まれ。映画プロデューサー、放送作家。上智大学卒。放送作家としてはTBS『わくわく動物ランド』、全民放『ゆく年くる年』他の番組を手がける。映画は岡本喜八、篠田正浩監督の独立プロで『大誘拐』『梟の城』『スパイ・ゾルゲ』等の製作・宣伝に携わる。『極道の妻たち』『きけ、わだつみの声』『時をかける少女』『霧の子午線』他多数の映画の宣伝プロデューサー。東京国際映画祭の企画プロデュースにも5年間携わる。映画『男たちの大和』『ゆずり葉の頃』の企画製作プロデューサー。村上水軍(因島)23代当主でもある。

「尾道 あの海に会える」

 東京から尾道に向かうとき、新尾道からではなく、必ず福山で在来の山陽線に乗り換え、尾道に入る。鈍行に乗った瞬間から、ふるさとに戻っていくような懐かしさが募る。備後赤坂、下駄で有名な松永を過ぎ、東尾道に差し掛かったあたりからは、わくわく感も加わってくる。もうすぐ、あの海に会えると。「海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい」、林芙美子が『放浪記』の中で書いた有名な一節が、まるで私の気持ちを代弁しているように感じられる。時代も風景も、また林芙美子の置かれていた状況とも全く異なるのだが、かの一節が心に響く。家並みの向うにドックのクレーンの先っぽが見え隠れし始めるとまもなく尾道水道が視界に入ってくる。「ああ!」と得も言われぬ嬉しさがこみあげる。

 尾道の駅舎は、赤い屋根が特徴の平屋の洋館で、昭和初期の面影を残しているのがまたよい。だがこの昭和の駅舎も瀬戸内の新たな重要拠点として平成30年には生まれ変わるそうだ。淋しいことだが、新駅舎は明治の初代駅舎をイメージしたデザインとのこと、それもまた楽しみである。

 映画やTVのロケハンで全国各地を歩いてきた私だが、生まれ故郷でもない土地にこれだけ思い入れがあるのも不思議ではない。実は先祖からの大きなご縁があるのだ。

 その昔瀬戸内の海を縦横無尽に行き来した村上海賊。私はその末裔なのである。戦国時代、宣教師ルイス・フロイスをして“日本最大の海賊”と言わしめた村上海賊は、14世紀中頃から芸予の海を活動拠点とした海の領主であった。海賊というと乱暴で恐ろしいイメージを持つ人もあるだろうが、瀬戸内の複雑な潮流、海路を熟知し、大小の船を自在に操って、水先案内等航海の安全警護の他、今でいう海運業を営んでいたのである。ただ、戦国期になると信長、秀吉、毛利といった陸の大名の軍事力、すなわち水軍として海の武士団という役割を担ってもいた。村上海賊は航海の難所である能島・来島・因島に本拠地をおいた3家からなり、私は因島村上の23代目当主にあたる。

 その村上海賊も昨年日本遺産に登録され、父祖の地である因島を訪れる観光客も増えている。因島では20数年前から村上海賊の歴史、文化を伝え遺そうと毎夏因島水軍まつりを開催している。先祖の思いを受け継ぐ“島まつり”、松明に照らされた浜辺に伝統の因島水軍陣太鼓が響く中、100人以上もの鎧武者が戦国絵巻を繰り広げる“火まつり”、島の人々が昔のままの小早舟を漕いでレースを競う“海まつり”の3部からなる。鎌倉で育ち東京に暮らす私は、父亡き後初めてこのまつりに参加した。そして、村上海賊の残した「天地人の教え」を伝え遺すのだという島の人たちの純粋で熱い思いに素直に感動し、以来夫や親族、友人たちと毎年東京から通っている。夫も伊予の河野水軍の末裔であるため、夫婦そろってのルーツを訪ねる旅でもある。

 尾道にはもう一つご縁がある。プロデューサーとして関わった映画『男たちの大和』製作の際、実物大の戦艦大和を尾道水道を挟んで駅の対岸にある向島にセットとして作り、そこで撮影をしたのである。史上最大の戦艦大和、その姿は遠くからもよく見え、撮影の様子が千光寺からも見えると大きな話題となった。撮影の合間には、美味しいと評判の尾道ラーメンの店の行列に役者さんたちと並んだことも懐かしい思い出である。おかげさまで映画はメガヒット。今になってみると、因島と尾道駅を結ぶその間にある向島での長期間のロケが無事に終了したのも、もしかしたらご先祖様のご加護があったのかもと思う。

 初夏から運行開始となる TWILIGHT EXPRESS 瑞風が尾道にも停車するという。是非乗ってみたいものだ。瀬戸内の十字路に位置し、しまなみ海道の本州側の起点でもある尾道への旅、ますます楽しみが増えてきた。

ページトップに戻る
ローカルナビゲーションをとばしてフッターへ