エッセイ 出会いの旅

川尾朋子
書家。6歳より書を学び、国内外で多数受賞。2004年より祥洲氏に師事し、書の奥深さに取り憑かれ、"書に生かされている"ことを強く感じる。古典に向きあう日々の中で、代表作である「呼応」シリーズが生まれる。この作品は、点と点の間にある、宙を舞う筆の軌跡に着目したもので、見えないものを想像することをテーマとしている。  NHK大河ドラマ「八重の桜」OP映像、NHK Eテレ「趣味どきっ!」講師、阪急嵐山駅「嵐山」、TEDでのパフォーマンス、寺院の石碑等、あらゆる媒体に登場する文字や墨表現も好評を得ている。同志社女子大学卒業、四国大学特認教授、京都在住。

駅のない町

 私の生まれ育った町には、駅がなかった。今も駅はない。兵庫県豊岡市出石町。

 最寄りの豊岡駅に行くには、まずバスに30分ぐらい乗らなければならない。もしくは、誰かが車で送ってくれないと行けない。そのような場所に住んでいた私は、「駅」という場所はなにか特別で憧れの気持ちがあったし、両親が誰かを送迎のため車で駅へ行くというのを聞くと、私も駅に行きたい、連れていってほしいとせがんで一緒に駅まで行ったりもしていた。

 小学生になると、大阪に住んでいる伯母のところへ、兄や従姉妹と一緒に特急列車の当時「はまかぜ」に乗って出かけた。兄や従姉妹がいたので、伯母へと預かったお土産は任せていたし、私はただただ楽しくてはしゃいでいた。子供だけの旅は、怒られることもないし気分いいなあ、という具合だったのだろう。

 それから、兄も従姉妹も部活が忙しくなり、1人で大阪に行くことになった。今まで頼ることができた兄や従姉妹がいない。小学校低学年の私にとって1人で特急列車に乗ることは、スーパービッグイベントであり、少々大げさだが、何か冒険に出かけるぞという味わったことのない気持ちで列車に乗った。列車での席では誰が隣に座るのだろう、トイレに行きたくなったらどうしよう、などの不安も抱えながら…(母がホームまで送ってくれ、伯母がホームまで迎えに来ているのにもかかわらず 笑)大阪に近づくと巨大な高層ビルがドーンとあって胸が高鳴りつつも、母から預かったお土産は持ったか、切符はお財布の中にあるかなど子供ながらに冷静になって何回も確認して列車から降りた。この瞬間、やったー!私は1人で大阪に来たぞー!と声に出して言いたいぐらい嬉しかったことを覚えている。

 それから随分と時が過ぎ、今、私は京都に住み活動をしている。大学から京都に来て、京都に魅了され、そのまま居着いたパターンだ。京都駅から豊岡駅へは、特急「きのさき」に乗る。大学時代は、お盆と年末年始、家業が忙しいため、手伝いも兼ねて実家に帰るという約束をしていたこともあり、帰省していた。毎回、両親が駅まで車で迎えに来てくれて、駅まで送ってくれていた。

 先日、実家に帰った時も、両親が豊岡駅まで車で送ってくれた。数えれば何回3人で自宅から豊岡駅へ車に乗っているのだろう。思い出せば、さまざまな時があった。父が病気の時は母とこれからのことを話したり、暗い気持ちにならないようにわざと元気な話をしたり、冬の雪の日はゆっくりと気をつけて運転してほしいからあまり話しかけなかったり…など考えてふと思った。駅までの車内は、私にとって両親とのコミュニケーションの時間であり、別れるまでの最後の会話の場所なんだなあ、と。

 幼いころ、両親の車に乗ってお客様を送って「駅」まで行きたかった私も、小学生の時に1人で「駅」から冒険の旅へ行った私も、両親に「駅」まで送ってもらう現在の私も、毎回、心境は違うけれど。

 「駅」がない町に生まれたことは、ただただ不便だと思っていた。しかしそれによって、駅までの時間がこんなにもかけがえのない時間になると思ってもみなかった。

 いつもお別れをする「駅」だが、近い将来に両親と「駅」まで行って、一緒にそのまま列車に乗って旅に出る計画を立ててみたいと思う。

ページトップに戻る
ローカルナビゲーションをとばしてフッターへ