近代化産業遺産

赤煉瓦の風景の中に日本の近代化の歴史が息づく

美しいリアス式の海岸線を誇る舞鶴湾。
湾口が狭く、山に囲まれた天然の要害であったことから明治期には旧海軍鎮守府[ちんじゅふ]が開庁し、軍港として発展した。港に面した北吸[きたすい]地区には、日本海軍が残した12棟の赤煉瓦建築が並び立ち、近代化へと進んだ時代の息吹を今に伝える。

舞鶴赤れんがパークがある北吸地区へは、東舞鶴駅から徒歩約10分。

赤煉瓦と石で舗装された赤れんがロードは、かつて海軍が造った物品運搬道路。長く土に埋まっていたが、地元市民の手作業によって掘り起こされ往時の姿が復活している。ロード沿いには、いずれも1902(明治35)年に建てられた国所有の倉庫3棟(非公開)が連なる。国の重要文化財に指定されている。

躍動した時代の面影を宿す煉瓦建築

1972(昭和47)年当時の北吸地区赤煉瓦倉庫群。左から旧魚形水雷庫(現赤れんが博物館)、水雷庫、大砲庫が湾岸に残存している。現在、水雷庫及び大砲庫は滅失。

1904(明治37)年建設の北吸トンネル(北吸隧道)。当時は軍港引込線として資材輸送のための鉄道が走っていた。1974(昭和49)年に自転車・歩行者道路として整備。国登録有形文化財。

旧北吸浄水場。艦艇補給用水の確保のために整備された上水道施設の一つで、アーチを施したロマネスク風煉瓦造りの上屋は1926(大正15)年に建てられたもの。国の重要文化財に指定されている。

 煉瓦は粘土に収縮を防ぐための砂を混ぜて成型したもので、建築用材料の一つとして世界各地で使われ、およそ1万年もの歴史があるという。日本には仏教とともに中国の「[せん]」と呼ばれる煉瓦が伝わっているが、本格的に使われ出したのは明治維新以降。文明開化、殖産興業の象徴として、西洋式の赤煉瓦が急速に普及し、灯台や工業・軍事施設などの建造物のほか、鉄道や疏水といったインフラ整備にも用いられた。煉瓦を大量生産できるホフマン式輪窯[りんよう]が全国に導入され、大正時代には、建築素材として最盛期を迎えた。

 港町 舞鶴に残る煉瓦建築の歴史は、1901(明治34)年の旧海軍の舞鶴鎮守府設置に遡る。鎮守府とは、横須賀・呉・佐世保・舞鶴に開設された海軍の重要組織。中でも舞鶴は、日本海唯一の守りの拠点であった。静かな農漁村に当時の先端技術を集積し、多量の煉瓦を使用して倉庫群を整備。小型艦艇を製造する海軍工廠[こうしょう]なども建設された。赤煉瓦造りの建造物は軍の基地だけでなく、小高い丘に佇む旧北吸浄水場配水池をはじめ、鉄道路線のトンネルや橋りょうなど生活基盤施設にも及び、軍港都市として発展したまちの歩みを物語っている。

  • ※ドイツ人技術者のフリードリッヒ・ホフマンが考案したリング状の窯。大量の煉瓦を効率よく生産できた。

歴史遺産に新たな命を吹き込む

神崎煉瓦ホフマン式輪窯。もとは登窯であったが、大正末期に連続焼成が可能なホフマン窯に改造された。国の登録有形文化財。(写真は平成12年頃のもの)

“建物そのものが展示物”といわれる赤れんが博物館。日本では数少ないフランス積みの煉瓦造りで、木造の床や主要な柱、鉄骨のトラスなどは当時のもの。現存する鉄骨構造の煉瓦建築としては日本最古級とされる。

煉瓦をテーマにした博物館としては世界で唯一。各国の煉瓦が展示され、その歴史や製造法などが学べるほか、ホフマン窯も再現されている。

 時代が昭和から平成へと移る頃、地域に残された貴重な歴史遺産である赤煉瓦建造物を保存・活用していこうという気運が高まっていく。市民と行政の協働による「赤れんがを活かしたまちづくり」が始動し、ライトアップを手始めに、残存調査なども行われていった。こうしたなか、軍の施設建設に必要な煉瓦製造のために造られた神崎[かんざき]煉瓦ホフマン式輪窯が発見されるなど、市内各所では120件を超える赤煉瓦の建物が確認されたという。

 北吸地区の倉庫群の再生も進められる。1993(平成5)年、煉瓦について理解を深めるための施設として赤れんが博物館を開設。1903(明治36)年に魚形水雷庫として建てられた鉄骨煉瓦造りの建物には、現在世界約42カ国2000点あまりの煉瓦が収蔵されている。また、当時は予備艦兵器庫として使われ、戦後市役所第二庁舎に使用された建物は舞鶴市政記念館に、弾丸や小銃を保管した倉庫は海軍ゆかりの資料を展示するまいづる智恵蔵[ちえぐら]に再生されるなど、新たな役割を担い存在感を示す。これら湾岸に残る全12棟の倉庫群のうち、8棟が国指定重要文化財。2012(平成24)年に観光交流施設「舞鶴赤れんがパーク」として整備され、鎮守府開庁から120年の時を経た今に蘇っている。

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