徳川頼宣が誰でも妹背山に渡れるように架けた石造りの三断橋。今も昔も干潟の移ろいを楽しむ場所だ。

特集 絶景の宝庫 和歌の浦〈和歌山県和歌山市・海南市〉 都人が憧憬した聖地

2ページ中2ページ目

今日に残された和歌山の景観遺産

豊臣秀吉が和歌の浦に因んで和歌山城と命名した。

養翠園は、江戸の後期に紀州藩十代藩主・徳川治宝が造営。和歌の浦の景観を活かし、江戸の浜離宮と同じ海水を取り入れた池泉回遊式の大名庭園。

アーチ状の石造りの不老橋。徳川治宝の命により「和歌祭」の御成道として、片男波の入江の入り口に架けた。手前の市町川は入江の名残。

 日本遺産の「絶景の宝庫 和歌の浦」は、狭義には和歌川の河口に広がる干潟地帯と片男波の砂州から玉津島の周辺だが、広義には西は紀伊水道に臨む雑賀崎[さいかざき]、東は名草山、南は熊野街道の藤白坂までの、およそ和歌浦湾全体に及ぶ自然景観などの名勝地である。

 全体を見渡すために、東の名草山に登り、奠供山の西側に聳[そび]える章魚頭姿山[たこずしやま]にも登った。同じ和歌の浦でもまるで風景が異なる。視点の違いで、さまざまな絶景を見せてくれる。四国までも見える山頂から、玉津島六山は確かに島だと確認できる。今では家々に囲まれて浮かぶ緑の島だ。

 「絶景の宝庫 和歌の浦」は片男波や干潟など31点の文化財で構成されているが、自然景観だけではない。玉津島神社など和歌の浦の歴史に根ざし、時代時代の歴史の断片を語り伝える建造物や町並みも含まれている。例えば、和歌山城と和歌の浦にはこんなストーリーがある。戦国時代末期、豊臣秀吉は紀州攻めの際に和歌の浦に遊覧した。玉津島神社に詣でて、和歌の浦の風光に感動して歌も詠んでいる。和歌の浦の北の岡山という土地に築城し、和歌の浦に因み、浦に対して山、ということで和歌山城と命名し城下を和歌山と呼んだ。さらに幕末、紀州藩は廃藩になり和歌山を引き継いで県名を和歌山と改名。これも和歌の浦に関わる歴史的なエピソードだ。

 和歌山城といえば江戸幕府を通じて徳川御三家、紀州徳川家の居城だ。日本遺産として守り継がれる今日の和歌の浦の景観は、紀州徳川家によって整備されたといってもいい。400年前に徳川家康の十男、徳川頼宣[よりのぶ]は和歌山に入府すると、和歌の浦の北西の山の中腹に父家康を祀る紀州東照宮を造営した。

 関西の日光といわれ、隣地の天神山に鎮座する和歌浦天満宮と並んだ光景は、和歌の浦を代表する景観の一つになっている。いずれも、楼門を通して眼下に和歌の浦の風景を見渡せる。紀州東照宮の例大祭、伝統行事の「和歌祭」も頼宣が始めた。和歌の浦を背景に渡御行列が練り歩き、今も市民が皆で楽しむ祭りだ。

108段の石段を上ると、紀州東照宮の朱塗りの楼門が迎えてくれる。

「和歌祭」は、紀州東照宮の例大祭。東照宮の創建時から伝わる渡御行列は江戸時代の芸能風俗を今に伝える。

行列の後尾となる「面被(めんかぶり)」は、高下駄に陣羽織を着て鳴り物を持つ。ユーモラスな面をつけて子供を驚かせながら練り歩く。

 頼宣はさらに妹背山に母を偲ぶ多宝塔を建て、石橋の三断橋をかけて観海閣[かんかいかく]を設けている。潮の干満と干潟の移ろいを楽しむ施設として民衆に広く開放した。当時は対岸の名草山の山麓にある西国巡礼の名刹、紀三井寺から渡し舟で妹背山に遊覧したそうだ。十代藩主の治宝[はるとみ]も養翠園[ようすいえん]という大名庭園を造園している。

西国三十三所の二番札所の名刹、紀三井寺(護国院)。名草山の中腹にある境内からは和歌の浦がよく見える。干潟を手前に、片男波の向こうに輝く海。夕景は金色の海になる。さながら浄土の美しさだ。

 どれも日本遺産の和歌の浦の風景に欠かせない重要な文化財だ。ただ自然景観が美しいだけでなく、時代時代で景観を創り、それを大切に守り続ける人々の努力だ。万葉時代、聖武天皇は「この景観を末永く守るように」と命じている。1300年以上も前から、人々は和歌の浦の環境保全に尽力してきたことになる。

 過去に和歌の浦は新聞社が選出した「新日本観光地百選」の海岸の部で1位を獲得したこともある。新婚旅行の行先でも全国1位になった栄光もある。ホテルや旅館が林立する一大観光地として全国に知られた。そんな時代を経て現在、和歌に詠まれた歴史的な景観が注目されている。もう一度、三断橋を渡り潮の引いた干潟を眺めに行った。

 鷺[さぎ]やかもめなど無数の水鳥が、干潟の泥に嘴[くちばし]をせわしく突いている。ふと何かの拍子で一斉に飛び立ち、群れになって空を舞う。この干潟の風景と鳥たちの営みは朝日、夕陽の時が詩情があふれて格別に美しい。

ページトップへ戻る
前のページを読む
  • 特集1ページ目
  • 特集2ページ目
ローカルナビゲーションをとばしてフッターへ