本浦の外れにある造船所で船底塗装中の漁船。その昔は5軒あったそうだが今では2軒。漁業の衰退で新しい船を造る機会もなく、仕事はもっぱら船の修理だ。

特集 周防大島 沖家室島

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進取気鋭の気質を受け継ぐ「盆に沈む島」

 沖家室島の海は今も美しい。晴れていれば四国の石鎚山もくっきりと見える。島近くには大水無瀬、小水無瀬、千貝瀬といった鯛やハマチ、メバルなどの高級魚の好漁場がある。が、「昔みたいに釣れん、釣れても船の油代にもならん」と古谷さんは嘆く。それでも毎日海に出るのは「漁が好き、沖家室の海が好きじゃけん」。

 集落には郵便局が1つあるだけで、飲食店は1軒もない。山の斜面はミカンの段々畑だったが放棄されて樹木が覆っている。しかし、そよ吹く海渡りの風がなにより代えがたい豊かさに感じられる。洲崎から本浦へ向かう途中、海に突き出た小高い丘の上に蛭子[えびす]神社があった。夫が漁に出た後、妻が必ず1日と15日に夫の漁の安全を祈願し、潮水を汲んで境内に撒いたという。

 神社から見下ろす本浦は小さな入り江の港町だ。家の前のベンチに腰掛けておばあちゃんたちがにこやかに話している。目が合うと、にこりと笑って声を掛けてくれた。そして教えてくれた。「いつもは人はおらんけど、夏の盆にはようけ人が還ってくるけんね」。沖家室島は「盆に沈む島」とも呼ばれる。

 盆の時期を迎えると島を離れて暮らす人が一斉に帰省し、その期間は人で島が沈んでしまうという例えだ。空家にも明かりが灯り、かつては3日3晩、連夜徹夜で踊り明かしたいう。「普段の10倍以上の人口になります。盆に島と人との絆を深めるのです」。島の精神的支柱である泊清[はくせい]寺の21世、新山玄雄[にいやましずお]住職はそう話す。境内にある「ふか地蔵」は、航海の守り本尊として島の内外の漁師のあつい信仰を集めている。

段々畑から眺めた本浦集落の家並み。なんとも穏やかで明るい瀬戸の典型的な漁村風景だ。

盆には島外に出た家族らが一斉に島に還ってくる。沖家室島の盆踊りは、日の丸の扇子を両手に持って踊る独特なものだ。

 新山住職は「潮音[ちょうおん]」という小冊子を発行し、島と島外の人とを繋ぐ。「沖家室の伝統と文化とは、海洋民としての拡散と進取のスピリッツです」。大海の荒海に怯まず小さな舟で乗り出した勇気と行動力、ハワイなど海外に雄飛したフロンティア魂。住職は「多くの人が島を離れましたが、それは島の伝統でもあります」。

 しかし、人々は盆には必ず島に還る。沖家室島は求心力で、誇りなのだ。沖家室という強い絆で互いに結ばれ、助け合うのが漁師の島の習いだ。例えば「かむろ会」という同郷人の組織がハワイにもある。そして「橋が欲しい」と島民が願い続けた沖家室大橋の完成には、島外の人らも協力して多額の寄付金を集めた。

本浦にある泊清寺の新山住職。寺は参勤交代の本陣にもなった名刹で、寺は島民を繋ぐ精神的な役割を担っている。

Iターンで沖家室島で民宿を営む若いご夫婦は、遊魚船や一本釣り漁の水産加工販売なども手がけ、この島を生活の基盤に仕事を始めた。この日は漁業体験学習で沖家室島を訪れていた山口県内の中学生たちをもてなしていた。

 架橋には、離島振興に情熱を注いだ民俗学者の宮本常一[つねいち]氏の尽力も大きかった。宮本氏は周防大島旧東和町の出身で、全国の農漁村をくまなく歩き、忘れられようとしている日本の風景や、そこに暮らす人々の歴史や文化を丹念に掘り起こし記録した。新山住職は自治会の代表として宮本氏と親交を持ち、沖家室島の未来を熱く語り合ったそうだ。「過疎とはスピリッツの喪失です」。そして住職は顔を綻ばせた。70歳を超えていた平均年齢が今年、57.9歳に若返ったのだ。

 住職の娘さんご夫婦と3人の子どもたちが島の新しい住人になった。少数だがIターンで島に移り住んだ若いご夫婦、現役を退いて島にUターンする人もわずかずつ増えている。沖家室島では60歳代は若者である。さらに宮本氏の著作を読んだ学生や若者たちが全国から島を訪れることも多くなった。こうした兆しのその先に、きっと島の未来が見えてくるのではないだろうか。

 清々しい海風が海面を撫で、ちりめんの皺のような波紋を広げた。聞こえるのは海岸に寄せるつつましい波の音だけだ。

「周防大島文化交流センター」では宮本氏の足跡を常設展示。手作りの冊子やネット上で宮本氏が成した業績、島の歴史・文化を発信している。

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