『石見相聞歌』で詠まれる高角山は、現在の島ノ星山とされる。山道の途中の樹間から依羅娘子が住んでいたという角の里を望む。

特集 西日本万葉の旅 石見の荒磯と山の歌

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石見のや 高角山の 木の間より
我が振る袖を 妹見つらむか 柿本人麻呂

 人麻呂が石見国庁にいつ赴任したのかは定かではない。国庁の場所は現在の島根県浜田市の山陰本線下府[しもこう]駅近くの伊甘[いかむ]神社付近とされ、境内の大銀杏の木陰に国庁址を示す石碑がある。人麻呂はここで一人の女性と結ばれた。浜田市の東の江津市二宮町、角[つの]の里と呼ばれた土地の有力者の娘だったのだろう。名は依羅娘子[よさみのおとめ]。

 歌は「石見相聞歌」第1首目の長歌に対する反歌である。相聞歌とは、男女の間で交わされる歌で、長歌の前半では妻が住む角の里の海景を褒め讃える。一変、後半では妻との別離の悲しさを切々と詠い上げ、愛しいがゆえの狂おしさを唸るように詠む。山道を歩き、妻の住む里のほうを何度も何度も振り返ってみるが、山が立ちはだかってもう見ることができない。人麻呂は「…邪魔だ、なびいて消え去れ、この山よ」と激しい表現で妻への愛を詠う。

国庁跡の石碑

石見国府は浜田市の伊甘(いかむ)神社の境内にあったといわれ、国庁跡の石碑がある。祖神の伊甘氏は柿本族と同族といわれる。

 「石見国より妻に別れ上り来る時の歌」と題詞に記された長歌を要約したのが上の反歌である。高角山は、江津市街の南になだらかな尾根を日本海へと沈める島ノ星山(470m)だとされる。山上に登ると、日本海の波が長々と続く白い浜に寄せている。妻への募る思いを胸に人麻呂が眺めた風景である。

な思ひと 君は言へども 逢はむ時 
いつと知りてか 我が恋ひずあらむ 依羅娘子

島ノ星山(高角山)方面

江津市の和木の真島から島ノ星山(高角山)方面を望む。

 この歌は『石見相聞歌』を締めくくる歌。夫である人麻呂と別れ、もう逢えないかもしれないという依羅娘子の悲嘆と諦められない心情が哀しく切ない。この歌が『石見相聞歌』をドラマチックに盛り上げる。その劇的なあまり、依羅娘子は人麻呂の創作ではないかという説さえあり、実際、依羅娘子が実在したかどうかは謎のままである。

 古代、娘子の名は出身地で呼ばれるのが習わしで、「依羅」という地名は石見国には見当たらない。河内、摂津(大阪府)にその地名があり、ゆえに人麻呂が石見の妻に仕立てた作りごとだという。あるいは後代の誰かが加えたのだともいわれる。仮にそれならそれも人麻呂らしい。人麻呂が大歌人であるゆえんは稀代の創作者であることだ。自然や風景を心理的にとらえ、現実を超えたドラマに仕立て、愛や情念を詠んで人びとの心を響かせる。それが大詩人、大歌人の偉大さではないだろうか。和歌の原形を作り上げ、日本の文学も人麻呂から始まるといわれる。

江津市街

島ノ星山(高角山)の山頂から江津市街を見渡す。江の川が広々とした日本海に注いでいる。

 都野津の「柿本神社」には二人が睦まじく祀られている。史実は明らかではないが、この地に立てば、依羅娘子は確かにこの里に暮らし、都へと去りゆく夫を追慕して都野津の海岸から見る高角山を眺めて、とめどなく涙したに違いないと思えてくる。

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