Blue Signal
September 2005 vol.102 
特集
駅の風景
うたびとの歳時記
大阪駅進化論
天守閣探訪
うたびとの歳時記 1992(平成4)年に復元された現在の其中庵。ぬれ縁からは、当時と同じように柿の木を見ることができる。
赤き実のなる木、
赤木[あかき]がその名の由来とされる「柿」。
農村の畦道で、家々の庭先で、
豊かに実る柿の木は、秋の詩情をかきたて、
人々の心に鮮やかな印象を与えてきた。
放浪行乞[ぎょうこつ]の俳人として知られる種田山頭火[たねださんとうか]は、
柿の葉の美しさを称え、武骨な枝を愛し、
多くの句に詠んでいる。
山頭火の心をとらえた、
日本の秋の原風景をたどってみた。
多彩に利用される生活樹
澄みわたる青空に映える赤い実。秋を彩る柿は、日本の風土に溶け込んだ代表的な果樹である。山頭火は、まだ花が咲いている頃からその実を心待ちにし、枝にあっても盆に盛られても、それだけで芸術品であると賞賛している。原産地は中国中南部地方といわれ、紀元前2世紀にすでに栽培されていたとの記録が残る。日本では、8世紀中頃の平城京跡の二条大橋遺構から、多量の柿の種子と柿の値段を記した木簡が見つかっており、奈良時代における柿の流通の様子がうかがえる。食用の記録としては、平安時代の宮中式典の細則などを記した『延喜式』(927年)に、祭礼の際、熟し柿や干し柿が供物とされたとある。その後、柿は貴重な甘味料となり、飢饉の際の保存食糧にも利用されたという。さらに、「柿茶」や「柿酢」などとして食用される他、へたを日干しにした「柿蔕[してい]」は漢方薬に、「柿渋」は漆に匹敵する塗料として木材、布袋、和紙などの耐水・防虫補強用にと、幅広く生活の中で利用されてきた。このように、柿は古くから人々の暮らしに根づき、有用されてきた生活樹であった。正月の縁起物としての串柿や歯がために干し柿を食べる習わしなど、年中行事の中にも数多く登場する。また、秋に実を収穫する際、必ず1果を残しておく「木守り柿」は、翌年の豊かな実りを願う風習として各地に伝わり、冬の季語にもなっている。
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禅僧が行脚の時に被る網代笠を身につけ、放浪の旅を続ける山頭火。
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結庵後の暮らしのようす。「其中」とは、山頭火が好んだ言葉で、法華経「普門品[ふもんぼん]」にある「其中一人作是唱言」という一節が語源となっている。
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「柿の木を巡らし、柿の木に囲まれ」ていた当時の其中庵。庵の入り口付近をはじめ、前に広がる段々畑にも多数柿の木があったという。
あの柿が庵らしくする実のたわわ 山頭火
旅に人生を委ね、俳句に人生を託す
山頭火は、行乞の旅の中で句作を続けた漂泊の俳人である。1882(明治15)年、山口県防府市の大地主、種田家の長男として生まれた山頭火(本名正一)は、行く行くは七代目となるべく大切に育てられ、何不自由のない幼少期を送った。しかし、幸せに見えた家族にも不幸の影は忍び寄り、自身も神経衰弱を患い大学を中退。その後、望まない結婚、一家離散など、人生の悲運の中で文学に心を寄せていく。最初は、郷土文芸誌にツルゲーネフなどの翻訳を発表していたが、やがて自由律俳句の提唱者である荻原井泉水[おぎわらせいせんすい]に師事し、俳誌「層雲[そううん]」に投稿。俳号を山頭火とし、防府俳壇の中心的存在になっていった。43歳のある日、泥酔して禅寺に身柄を託されるという出来事があり、それをきっかけに禅門に入る。翌年には出家得度し、法名を耕畝[こうほ]とした。そして、熊本県植木町の観音堂の堂守となったが、1年後には寺を捨て、一鉢一笠の旅に出る。この後、草庵と放浪の旅を繰り返すことになるのである。

行雲流水の旅の中で、山頭火は有季定型にとらわれず、自然や人間をあるがままに詠った多くの名句を残している。しかしながら旅の生活は孤独で厳しく、心身ともに負担が大きくなっていった。安住の場所を求めていた山頭火は、句友のすすめもあって、1932(昭和7)年9月20日、郷里にほど近い小郡町矢足[やあし]に小さな茅葺きの家を借りて結庵する。「其中庵[ごちゅうあん]」と名づけられたこの庵で、俳人山頭火としては最も長い、7年という定住の月日を過ごすことになる。
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安住の象徴としての柿の木
「私は柿を愛する、実よりも樹を、――あの武骨な枝、野人的な葉、そこには近代的なものはないが、それだけに日本的だ」(『其中日記』より)

柿に特別な思いを寄せた山頭火にとって、其中庵はまさに安住にふさわしい場所であった。庵のまわりには、いたるところに柿の木があり、その柿の木によって其中庵の風景はより庵らしく装飾されていた。冒頭の句は、入庵後10月11日の『其中日記』の中に記されている。庵主となった山頭火は、柿の若葉の輝かしさ、落ち葉の美しさをいとおしみ、秋にはその実の甘さを味わいながら、四季を通して柿を詠っている。この其中庵時代は、山頭火の創作活動を結実させるための充実した時期と考えられ、多くの句友と交流を深め、『草木塔[そうもくとう]』『山行水行[さんこうすいこう]』『雑草風景』『柿の葉』などの句集を次々に発行した。また、庭に小さな畑をつくって大根の種を蒔き、生活人として過ごした時期でもあった。

この柿の木が庵らしくするあるじとして
(11月25日改作)

ようやく願望の庵を結ぶことができた山頭火にとって、柿の木はまさにあるじとしての喜びややすらぎをもたらすものであり、豊かな日本の秋の原風景として存在したのである。
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