「葵上」。『源氏物語』の葵の巻を題材にした作で、主人公は六条御息所。光源氏をめぐって正妻の葵上との恋の葛藤を描いている。テーマは嫉妬に狂った御息所の執念。

特集 たぐいなき幽玄、夢幻の舞台芸術 能楽

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京都で伝統を継承する金剛流能

 能は「引き算の芸術」「動かざる芸術」とも言われる。人間の葛藤、喜怒哀楽の本質を研ぎすまし、これ以上は省略できないほど簡素な所作で表現する、極めて抽象的で象徴的な芸術だからである。舞台には幕さえなく、およそ6メートル四方の舞台空間と橋掛[はしがか]り、そして舞台の奥の鏡板[かがみいた]に描かれた老い松が背景にあるのみで、演者の姿だけが浮かび上がる。時間と場所にとらわれず、一切が面[おもて]をかけた演者の動きだけでその人物と物語が描かれるのだ。
 故に、能は「観る人の想像力に委ねられている」と話すのは、金剛流26世宗家、金剛永謹[ひさのり]氏。大和猿楽四座の坂戸座を祖とし、現在五流あるシテ方の中で唯一、京都を拠点にする流派である。華麗で躍動的な芸風から「舞金剛」、また京の雅さと優美さを備えて「京金剛」、さらに貴重な面や装束を多く所蔵していることから「面金剛」とも形容されている。

「羽衣」。羽衣伝説に題をとったもので、200番を超す能の演目の中で最多上演記録の名曲。のどかで華やいだ曲の鑑賞とともに、面と装束、扇など、その華麗な意匠も見どころ。

金剛能楽堂」の舞台平面。
能舞台には舞台と客席を隔てる幕がなく、場所を限定せずに想像の自由を観る者に与えている。演者は鏡ノ間で面をかけ、揚幕から登場し、舞台に続く橋掛りを終始無言で進み、舞台に立つ。背景や情景の描写は、演者が身体全体で表現する。(金剛流能楽鑑賞入門 『風姿』より)

 能は主にシテ方(主役)の舞、謡、囃子の三位一体で展開し、シテ、ワキ、ツレなど7つの役籍と21の流儀がある。「夢幻能」と現在の時間で進行する「現在能」の2つがあり、演目は『万葉集』『平家物語』『源氏物語』や『伊勢物語』などの古典からとったものが多く、演目数はおよそ240曲。五穀豊穣を祈る翁舞のほか、人間の苦悩、葛藤、男女親子の愛憎劇、豪快で華やかな曲も少なくない。登場するのは、神や花の精、幽霊、鬼などさまざまで、上演は性格の違った演目5種類の能に狂言を組み合わせる「五番立て」が本来だが、「それでは一日がかりなので今は狂言を一番に、能を二番、三番にというのが通常です」という。

 「舞金剛」と呼ばれるその特徴を宗家は「一言でいうとケレンです」。他流派に比べて「動きが多く、奇抜な演出をするところもあります」。これは世阿弥が言う、 常に多くの人に愛される芸こそ一座の中心と説いた「衆人愛敬[しゅうにんあいぎょう]」にも通じる。そして演者として、宗家はその精神性をこう話した。
「面をかけると視野は闇に閉ざされ、一点しか見えなくなる。足元も手や腕の動きも見えない。面をかけることによる精神の集中が役そのものに変身させるのです。全ての動作が中腰、摺り足。さらに精神を集中し、動かざるごとくに演じなければなりません。この動きと動きとの間が能の芸術性でもあり、この間の意味を理解できるところが日本人の精神性、美意識なのではないでしょうか。一度でも能をご覧いただければ、きっと日本人の感性が呼び覚まされるに違いありません」と。
 他流の宗家は今では京都を離れてしまっているが、京都御所の能御用を長く務めた金剛流は能が開花したこの京都で600年の伝統を脈々と守り続けている。 「京都の人は能が好きですよ。謡や舞を嗜まれる方が多いです」と宗家。四季の移ろい、雅な佇まい、そして何より伝統が培った洗練された「幽玄」の美意識こそ、京都は、能という日本の古典芸能にもっとも似合いの場所であるのだろう。

「羽衣」。天人が羽衣を掛ける松に見立てた「作り物」と呼ばれる簡素な演出道具が登場。能の舞台には背景の書き割りや大道具はなく、観客は演者と作り物の関わりを見て、その意味する象徴を感じ取る。引き算の芸術といわれる由縁だ。

「土蜘蛛」。源頼光の武勇伝を題材にした曲。ストーリーは単純で娯楽性が濃い。躍動感があって金剛流が得意とする演目の一つで、能を観るのが初めての人でも分かりやすい。蜘蛛の糸を大量に用いるのは金剛流ならではの特長である「ケレン」。蜘蛛の糸は21世宗家金剛右近唯一が考案し、他流や他の芸能へ広まっていった。

金剛流26世宗家、金剛永謹氏。
宗家の座右の銘は世阿弥の「衆人愛敬をもて、一座建立の寿福とせり」。「常に多くの人に愛され、親しまれる金剛流でありたいと思っています」と話す。

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