Essay 出会いの旅

Zaitsu Kazuo 財津 和夫
1948年2月19日生まれ、福岡県出身。高校時代、ビートルズを聴き影響を受け、1971年チューリップ結成。翌1972年上京、東芝レコードより「魔法の黄色い靴」でデビュー。3作目の「心の旅」(1973年)がオリコン・チャート第1位を獲得後、「銀の指環」「青春の影」(1974年)、「虹とスニーカーの頃」(1979年)等のヒット作を発表。

チューリップは18年間の活動に幕をおろしたが、その後1997年以降、期間限定の再結成を行い、デビュー35周年となる2007年には47枚目となるアルバム「run」を発表。チューリップの活動と並行し、1978年からソロ活動をスタート。「WAKE UP」(1979年)はセイコーのCMソングとなり大ヒット。「サボテンの花〜ひとつ屋根の下より〜」(1993年)がドラマの主題歌となりソロ・シングルが大ヒットする。また、NHK“みんなのうた”「切手のないおくりもの」の作詞・作曲を手がけ、世代を問わず、幅広く愛され続けている。 現在、作家として楽曲提供や、アーティスト・プロデュース、ミュージカル音楽制作、俳優等、様々な分野で幅広く活躍中。2011年3月6日には、マリンメッセ福岡で開催される、九州新幹線全線開通記念を記念する音楽イベント「ひとつの九州」で、チューリップが一日限り再集結。

下駄履きと黒ズボンと武道館

あのビートルズと出会ったのが今から50年近く前。私がまだ中学生の頃だ。ラジオから飛び出すような騒音にも似た彼らの曲に眉をひそめてはヴォリュームを下げたものだった。でも「ア・ハード・デイズ・ナイト」という彼ら主演の映画を観て以来、ビートルズの虜になった。1966年来日公演したとき私は大学浪人中。東京の大学へ進んだ友人から武道館のチケットが贈られてきた。希少なものを手にしたからか、浪人の身なのに勉強する意欲もなく暇だったからか、私は東京へ行くことにした。
 当時の私は、嘘みたいだが、まだ下駄履きだった。革靴など高価すぎて、も理由だったが、博多では珍しいことではなかった。
 下駄履きに白いワイシャツ、そして黒ズボン(私は今でもこの呼称の方がパンツより履いてる感がある)の高校生の出で立ちで、博多から東京の夜行列車にたったひとり乗り込んだ。
 遠い一人旅は初めてだった。博多から東京は飛行機だって1から2便しかない時代。遥かな都、夢の都、そして憧れの都である。まるで外国を想うかのようであった。期待に胸は膨らむが、知らない地への不安もあったはずだ。なのに臆病風はどこにも吹いてなかった。“若い力”とはそういうことだ。
L字の型を死守するかのようなリクライニングなしの座席。そこで14時間を費やす旅の末、夜明けに横浜を迎えた。いや、横浜が私を迎えた。眼を覚ますと、窓からピンク色が車内に溢れていた。外をみると空一面にそれはそれは鮮やかなブルーが拡がっていた。L字の座席のふちに朝日が当たって眩みそうな金色を映し出していた。横浜は西から東京へ向かう者に先ず誇り高く語りかけてくる都市だ。ピラミッドにおけるスフィンクスのようなものかもしれない。港都市のせいか、歴史の教科書のなかでは東京より有名だ。そのときの私はまるでカボチャの馬車に乗るシンデレラ(喩えが多くてスミマセン)であったろう。ビートルズという王子に会う機会を得て胸は少女のようだったのだから。
横浜に降り立った訳でもないのに、東京よりも印象が強い。旅とはそういうものだ。著名な観光地より、憧れの地の、その第一歩が価値あるように思えたりする。たとえそこがまだ空港の敷地内でもだ。仮に国境を越えたとしても、さほど周りの景色は変わらない。でも旅人の心には感傷的になるほどの強いインパクトがある。ただ越えただけである。移民した訳でもない、不法入国でもないのに、だ(私はいまだに車でヨーロッパを国境越えしながらの旅がしたいと願っている。馬鹿みたいだが、A国とB国を分けるその境界線は長い歴史においてそこに住む人々の血や汗や涙で引かれたのだ、と自己満足だが好きなようにドラマ化して喜んでいる)。つまり旅は旅人の予備的な感傷によって計画的に素晴らしいものになる。これで旅後のうん蓄を語らなければ、旅は他人に迷惑をかけない素晴らしく上品な趣味だといえるだろう。
 話を戻そう。
 東京に着いた私は大都市に圧倒されながら武道館へ向かった。なにしろ地下鉄も高速道路も初めて眼の前にしたのだ。
 開演まで時間が余ったので、靖国神社で過ごした。武道館、靖国神社・・・この日本色の濃い所にビートルズはほんとに来るのだろうか。
チケットを握りしめ入場口に並んだ。下駄履きはどう見ても私だけ。ステージが始まった。私の席はステージから遠すぎて、ビートルズは“かぶと虫”より小さい蟻ほどにしか見えない。ふと隣の席をみると私と同年ほどの青少年がハンカチを振り叫んでいる。洒落たヨットパーカーにデッキシューズ…東京人と私との大きなギャップは、ビートルズを観る以上の衝撃だった。
 この旅の目的は東京、それとビートルズだったのに、印象深いのは横浜と武道館の隣席の青少年。旅の醍醐味は“計画的な感傷”だと思うが、計画の外で起こるもうひとりの未知の自分との出会いでもある。あの“青少年”の登場でひとりの私は“東京の凄さ”を知った。  数年後、「魔法の黄色い靴」という曲のデモテープを抱いて、プロになろうと東京へ向かったのは、横浜の朝や、あの青少年との出会い―「計画の外」のおかげだと思っている。

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