大宰府政庁址。筑紫野を見渡す高台にあり、7世紀後半から奈良・平安時代を通じて九州を治め、
国土防衛、外国との交渉や交流の窓口となった。

特集 西日本万葉の旅 筑紫から火の国を越えて

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春されば まづ咲くやどの 梅の花 ひとり見つつや 春日[はるひ]暮らさむ 山上憶良

大宰府は福岡の東南16kmの、四王山の山並みを背負った台地上にあった。都府楼ともいわれる大宰府政庁址の巨大な基石が往時のようすを伺わせる。730年正月13日(旧暦)に大伴旅人の邸で歌会が催された。筑紫万葉で最も名高い「梅花[ばいか]の宴[えん]」。九州全域から国司が招集され、梅をテーマに歌を詠んだ。万葉集に採録されているのは32首。

 上の歌はその一首で、万葉歌人の中でもその作風において異彩を放つ憶良の作だ。当代きっての知識人で苦労人の憶良の作風は、現実の社会苦や生活苦を追求した社会派といわれる。旅人とは地位も育ちも異なるが互いに認め合う仲だった。この歌は、憶良が旅人の心中になり代わって捧げたともいわれる。旅人は、大宰府に着任後まもなく愛妻を亡くした。寂しさと切なさのあまり、人生の無常を多くの歌に託した。

 憶良は盟友の胸中を察してこの歌を詠んだ。華やかな宴席にはいささかそぐわない寂し気な心情が漂っている。白い梅の花を亡き妻の化身として、やりきれない深い悲しみを詠っているように感じられる。万葉の大歌人である旅人も憶良も、その大半の歌がこの筑紫時代に詠まれている。妻の死と募る望郷の念が二人の創作欲をかき立てたのだろうか。

家ろには 葦火焚けども 住みよけを 筑紫に至りて 恋しけ思はも 上丁物部真根


洋上のはるか向こうに平たく横たわるのは対馬。対馬も壱岐も、唐・新羅の襲来に備えて東国から集められた防人たちが警護の任にあたった。

壱岐は博多から玄界灘の波頭を越えて約80km、そこから対馬まで約70km。その向こう間近に朝鮮半島が横たわる。663年の白村江の戦いで百済は滅亡。以後、日本は唐・新羅の脅威にさらされた。

 対馬、壱岐は防衛の最前線で、『日本書紀』には「対馬、壱岐、筑紫国に防人と烽[とぶひ]を置き、筑紫に大堤を築き水を貯え…」と記されている。壱岐ののろしは筑紫から瀬戸内海…生駒、春日山、平城京へと伝令された。そして防人は武蔵、相模、常陸など東国から集められた。その数3000人、壱岐には150人ほどの防人がいたという。

壱岐はゆるやかな丘陵がつづく平坦で豊かな島。もっとも高い場所が岳の辻で、山頂には烽(とぶひ)が置かれた。打ち上げられたのろしは筑紫国、瀬戸内を経て奈良の都に伝えられたという。

 作者は武蔵国出身で、上丁とは防人のこと。万葉集巻20には防人の歌が多く収録されているが、筑紫で詠まれたわけではない。この歌は難波津(大阪港)に集結した防人に詠ませた歌の中から、防人を集める役人だった大伴家持が採録した歌の一首だ。朝廷の絶対的な命令で故郷を離れ、両親や妻と別れて過酷な任務を務めなければならない一兵士の心情がよみとれる。

 暮らしは貧しいけれど、我が家にいるのが一番幸せだよ…と、つぶやくように詠うこの歌は胸に迫るものがある。だがなぜか、任地での防人の生活や胸中を詠ったものは一首も残っていない。

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