五箇山和紙

富山県南砺市東中江

水田地帯に、「散居村[さんきょそん]」の美しい風景が広がる富山県南砺市。南北に貫流する庄川の上流域には、合掌造り民家で名高い五箇山の集落が控えている。日本でも有数の紙郷として知られる五箇山では雪深い冬季、合掌造りの家々で、この地域ならではの和紙づくりが行われてきた。山間の里の暮らしに根付く、紙漉きの文化を訪ねた。

五箇山の豊かな自然と手漉きの技法が織りなす用の美

山里の生業としての和紙づくり

 越中富山の紙漉きの歴史は古く、その起源は奈良時代に遡るといわれている。774(宝亀5)年の正倉院文書『図書寮解[ずしょりょうげ]』には「越中国紙四百枚」の記述があり、また平安時代の『延喜式』にも、郷土の産物として一人あたり紙40張を上納していたという記録が残っている。

 紙はもともと中国が発祥の地とされ、7世紀初頭に朝鮮半島との交流によってその製法が日本に伝わったとされる。その頃日本では、仏教の普及に伴って写経が奨励されたこともあり、紙の需要は増大した。

現在も、自家栽培の楮と手漉きの技で作られる五箇山和紙の数々。中でも八寸紙は寸法の基準にもなり、障子から書き物、神仏のお供え用など幅広い用途を持つ。

 しかし、当時の紙はもろく、保存にも適していなかったため、自生植物の楮[こうぞ]、三椏[みつまた]、雁皮[がんぴ]などの木の皮を利用した紙漉きへと改良が進められた。こうして、日本独自の手漉き技法は原料と良質の水に恵まれた地域に広がり、地方色豊かな紙が生産されるようになる。同時に、記録保存の用途はもとより、建具として襖や障子に、また照明や雨傘といった庶民の暮らしの必需品として多彩な用途を持つようになり、現在に至る和紙文化が築かれていった。

 富山県下では、南砺市五箇山、富山市八尾[やつお]町、下新川郡朝日町が和紙の三大産地として名高い。この三大産地で作られる和紙は、越中和紙の総称で国の伝統的工芸品に指定されている。江戸時代、五箇山では加賀藩献上の中折紙や半紙、八尾では越中売薬の包装紙や袋、朝日では障子紙を主力製品に隆盛を極め、昭和初期にかけて和紙づくりは多くの農家の重要な生業であった。

先人の知恵を現代の暮らしに受け継ぐ

 世界遺産に登録されている相倉や菅沼集落に見られる「合掌造り」。五箇山の和紙は、この地方特有の茅葺きの切妻型民家で使われる障子紙から始まったそうだ。冬は豪雪となる厳しい自然環境に耐える強さが五箇山和紙の特徴。雨戸などがなかった時代には、障子戸だけで雨風をしのいでいたのだという。強さを生み出しているのは、地元産の楮。和紙の原料の中でも楮は繊維が長く、絡み合う性質のため薄くても強靭で、しなやかで温かみのある風合いを持つ。

「和紙は、この辺りの暮らしの道具でした」と話すのは、「五箇山和紙の里」の館長で、伝統工芸士の東秀幸さん。東さんによると、昭和30年代までは地域全体に合掌造りの家屋が残り、家々の土間には紙漉きのための漉き舟などがあったそうだ。かつては、春になると自分の畑で楮を栽培し、秋に刈り取った後は、楮の処理から紙漉きまでを雪に閉ざされる冬場に行うのが農家の習わしだった。楮の皮を雪の上に広げ、本来の自然な白に晒す「雪晒[ゆきざらし]」は、五箇山和紙の伝統工法とされている。

 今、時代の変化とともに、作り手は農家から伝統工芸士など専門家の手に移り、障子紙からインテリア用品、生活雑貨へと、製品も様変わりした。一方で、伝統産業を継承するための取り組みも地域に根付き、市内の小・中学校の卒業証書には手漉き和紙が使われ、紙漉き体験を通じた近隣地域との文化交流も盛んという。山里の素朴な営みは、郷土の誇りとなって脈々と受け継がれている。

  • 「楮の皮を煮て傷やゴミを取り除き、細かい繊維状にしたものが紙漉きの紙料となる。繊維を絡ませるためのネリには、トロロアオイの根の粘液が用いられる。

  • 漉き舟に簀桁(すけた)を入れて紙料をすくい上げ、前後左右に揺らしながら漉いていく。繊維を十文字に絡ませることで、どの方向にも強く破れにくい紙に仕上がる。

  • 南砺市の小学校では、伝統産業に触れるための学習時間が設けられ、その中で紙漉きを体験。地域に受け継がれている技と文化への理解を深めている。

  • 小学校で使われる五箇山和紙の卒業証書。小学生たちが体験学習で自ら漉いた和紙が使われる。

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