播州そろばん

兵庫県小野市

兵庫県中南部、東播磨の中心に位置する小野市は、県下最大級の河川、加古川の下流域にある。温暖な気候と豊かな耕地に恵まれたこの地では古くから農閑期の手仕事としてそろばんづくりが行われ、その生産量とともに、技術の高さを誇ってきた。この地に息づく「播州そろばん」の伝統を訪ねた。

精緻な美しさと使い心地を併せ持つ「数」の生活工芸品

農家職人に支えられた発展の歴史

 日本にそろばんが伝わったのは、室町時代末期とされ、長崎や堺の港町に中国の貿易商によって持ち込まれたと考えられている。一般に普及し始めたのは、江戸時代の初期。数学者毛利『重能[しげよし]』がそろばんの実用書『割算書』を著し、京都に「天下一割算指南」という道場を作って弟子たちにそろばんの計算法を伝授した。その弟子が寺子屋を利用して子どもたちに「読み・書き・そろばん」を教えるようになり、広く庶民の生活に浸透していった。もともと中国のそろばんは丸玉であったが、弾きやすいひし形にするなど、日本人向きに改良されたのもこの頃からとされる。

 

上からツゲ玉、カバ玉(オノオレカンバ)、黒檀玉の播州そろばん。 枠には、黒檀などの堅くて重い天然木が使われている。

 現在、小野市で生産されている「播州そろばん」の源流は、長崎から製法が伝わったという「大津そろばん」にある。大津は、近江商人で賑わう交通の要衝であり、商業が盛んな大坂、京都に近いことから、そろばん製造が盛んであった。小野にその製造方法が伝わったきっかけは、天正年間(1573から1593年)に羽柴秀吉が播州三木城を攻略した際、大津に難を逃れた住民がそろばんづくりを学び、帰郷して製造を始めたことにあるそうだ。

 播州に並ぶ産地として知られる島根県奥出雲の「雲州そろばん」が、主に銀行用のそろばんを工場生産していたのに対し、「播州そろばん」は商店や学校で広く使われるものを量産化してきた。その作業を支えたのは、一般農家の職人たち。農閑期、農家が部品作りを分業することで、小野の伝統産業の礎が築かれていった。

職人の最高の技術を結集する

 この製造における分業体制が、播州のそろばんづくりを特徴づけている。多いものでは、200以上もの工程を経て完成品になるというが、大きくは「玉作り」「玉仕上げ」「ひご竹作り」「組み立て」の4つの工程に分かれ、専門の職人によって効率的な作業が行われる。そろばんの命ともいわれる玉は、堅牢なカバやツゲの木を素材に、播州そろばん独特のやや丸みを帯びたひし形に、また真竹や煤竹は、堅く弾力性のあるひご竹へと仕上げられる。これらそろばんの部品は、最終工程となる組み立て職人のもとへと集められていく。

 市内で工房を営む宮本一廣さんは、播州そろばん枠造組立部門の伝統工芸士の一人。枠材の加工から玉入れ、裏板の細工に至るまで何段階もの工程を受け持つ。「いかに玉が動き、止まるかが大切」と話す宮本さんは、組み立てに必要な穴開けの工具や、間隔を測る型なども全て自作。さらに、微妙な玉の色を選別し、枠の内側は濃い色、外側は薄い色に揃えるなど、熟練の技が伝統的工芸品としての価値を持つ播州そろばんを形作っている。

 電卓の普及以降、需要の減少は著しいが、今また基礎学力向上のツールとして見直され、小学校3・4年生の授業に珠算が取り入れられている。小野市では、道徳の時間を活用して、ふるさとが誇るものづくりについて学ぶそうだ。今年の4月からは、職人養成のための新たな取り組みも始まっている。伝統を絶やすことなく次世代へと継承する地道な活動が、産地の明日を拓いていく。

  • 「ひご打ち」と呼ばれる工程。4玉と1玉を隔てる中桟にひご竹を刺し、5玉全てを通してから上の枠材にひご竹を打ち込み、左右枠を取り付けていく。

  • ひご竹の太さに合わせてキリを調整し、枠材に等間隔に穴を開けていく。こうした穴を開ける工具も、自身でこだわって製作したものだという。

  • 「いい玉は木目が鮮やかで、色の深みや艶が違う」と宮本さん。玉を一つずつ選別し、色の濃いものをよく使う中心に揃えて入れ、見た目にも美しく仕上げる。

  • 1956(昭和31)年からこの道に入って以来、半世紀以上にわたってそろばんづくり一筋の宮本さん。1976(昭和51)年には伝統工芸士の認定を受けた。

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