湖面を茜色に染める琵琶湖の夕暮れは静寂に包まれ、対岸の西側の山々に隠れながら夕陽はゆっくりと沈んでいく。かつて小堀遠州も眺めたであろう近江湖北の風景は、今も昔も変わらない。
1579(天正7)年、小堀遠州は近江国[おうみのくに]坂田郡小堀村(現:滋賀県長浜市)に生まれた。幼名は作介[さくすけ]。小堀家は、この地における地侍であった。湖北を治める浅井長政[あざいながまさ]の家臣の小堀新介[しんすけ]を父に、母は浅井家の重臣[じゅうしん]の娘といわれる。織田信長との戦の敗北によって浅井家は滅び、主を失った新介は羽柴(後の豊臣)秀吉、その後、弟の秀長の家臣となる。
郡山[こおりやま]城主として大和[やまと](奈良県)に入った秀長に伴って、新介親子もまた大和に移る。この時、遠州7歳。この大和時代に、少年遠州は後の人生に影響を受ける3人と出会う。茶人 千利休[せんのりきゅう]や古田織部[ふるたおりべ]、そして大徳寺の禅師 春屋宗園[しゅんおくそうえん]だ。彼らとの邂逅が、遠州の茶の道に大きな影響を与えた。利休の「侘び茶」は遠州の茶の湯の根本理念となり、直接の師であった織部からは茶の湯の系譜や創意工夫の深さを学び、春屋禅師からは禅の精神を会得した。
秀長の死去後、新介は秀吉の直属の武士となる。遠州は19歳で築城の名人 藤堂高虎[とうどうたかとら]の養女を妻に迎えるが、秀吉がその翌年に他界する。新介は関ヶ原では徳川側として従軍し、その戦功で備中(岡山県)の国奉行[くにぶぎょう]となって備中松山に赴任する。
遠州が家督を相続したのは、1604(慶長9)年。26歳の遠州は、備中松山城(岡山県高梁市)を居城に備中国奉行の役職や遺領1万2460石の地を引き継いだ。遠州が表舞台で活躍するのは、1606(慶長11)年。28歳で後陽成院[ごようぜいいん]御所の作事奉行に命じられ、その2年後には駿府[すんぷ]城(静岡県静岡市)の作事の功績により、従五位下遠江守[じゅごいのげ とおとうみのかみ]に叙任される。以降、「遠州」と呼ばれるようになる。その後、遠州は伏見奉行をはじめ幕府の各種奉行を歴任する。中でも建築と造園、そして茶の湯に才能を発揮していく。
琵琶湖の湖中にある長浜城跡の井戸跡。初めて城持ちとなった羽柴秀吉の在城時に使用されたと伝わる。
長浜市湖北町にある小谷城跡。小谷城は浅井家三代の居城で、湖北の戦国大名・浅井長政やお市、浅井三姉妹ゆかりの城。織田信長に敗れた浅井家は滅び、廃城となった。小堀家は浅井氏の家臣だった。
羽柴秀吉が初めて城持ちとなった長浜城。1575(天正3)年頃に城が完成すると小谷城から移り、秀吉は地名を今浜から「長浜」と改め、1582(天正10)年まで居城とした。遠州の父、小堀新介はこの頃に秀吉の家臣となった。
表門から境内に真っ直ぐに延びる大徳寺孤篷庵の「延段(のべだん)」。自然石と人工の切石が組み合わさった石畳は、遠州の独創的な表現の一つ。
(非公開/写真提供:京都春秋)
岡山県高梁市の頼久寺の蓬莱式枯山水庭園。頼久寺は遠州ゆかりの禅寺で、遠州の作庭による庭園は遠景の山々を借景とし、それに続くサツキの大刈り込みを打ち寄せる波のように配し、一つの理想郷を表現している。1974(昭和49)年に国の名勝に指定された。(写真提供:頼久寺)
京都市紫野にある大徳寺孤篷庵[だいとくじこほうあん](非公開)は、遠州が34歳で創建した自身の菩提寺だ。「孤篷庵」とは、春屋禅師から授かった道号[どうごう](仏の弟子としての名前)の一つで、「孤篷」とは、一艘の苫舟[とまぶね](草などで屋根を葺[ふ]いた舟)を意味する。この孤篷庵に遠州は、故郷の琵琶湖に浮かぶ小舟の風景を重ねた。茶室「忘筌[ぼうせん]」や庭園には、遠州の北近江への郷愁と思慕が投影されているという。また、自然石と人工的な切石を配し、曲線と直線を巧みに組み合わせた「延段[のべだん]」にも、新しい造形美をめざした遠州の世界観が表現されている。
遠州が手がけたとされる庭園は全国に点在するが、その中でも、かつて遠州が政務をとった岡山県高梁市の頼久寺[らいきゅうじ]には、蓬莱式枯山水[ほうらいしきかれさんすい]庭園があり、穏やかな波が続く様を表現する青海波[せいがいは]と呼ばれるサツキの大刈り込みは、遠州が好んだ作庭技法だ。そこにも直線と曲線を巧みに取り込んだ躍動感ある創造美が立ち現れている。

























