和菓子の歳時記

粽 ちまき

風薫る清々しさの中に、初夏の気配を感じ始める5月。新緑が日に日に色を増し、生命力に溢れる季節にふさわしく、男児の健やかな成長を願う「端午の節句」が巡ってくる。空を泳ぐ鯉のぼりや凛々しい顔の五月人形とともに伝統の行事を飾るのは「粽」である。笹の香りを豊かに放つ端正な姿に、その由来を辿ってみた。

葛の味と笹の香りが醸す風雅の味わい。

粽に込められた無病息災への願い

 「粽」とは、もち米やうるち米、米粉などで作り、笹や真菰[まこも]、茅萱[ちがや]などの葉に包んで巻いたものをいう。作られ始めた頃は、茅萱の葉で巻くことが多かったことから「ちまき」と名づけられたようだ。

 この菓子の起源は古く、日本では平安中期の承平年間(931〜938年)に編纂された『和名類聚抄[わみょうるいじゅしょう]』に記述が見られ、『伊勢物語』には「飾り粽」が登場している。さらに歴史を辿ると、紀元前300年頃の中国・楚の政治家で、詩人でもあった屈原[くつげん]の故事に遡る。陰謀によって失脚した屈原は国を追われ、亡国を嘆き入水する。その死を悲しんだ人々は、米を水辺の草に包んで水中に投げ入れ、供養したのが粽の始まりとされる。以後、命日の5月5日に粽を供え、災いや難を避ける風習として根付き、その名残は端午の節句の行事として今に残る。

 端午の節句は、「五節句」の一つに数えられ、日本には奈良時代に渡来した。節句は節供とも書き、節日に定められた節物を供えて邪気を払う行事をいう。もともと「端午」とは「月の初めの午[うま]の日」を意味するが、5月が十二支でいう午の月にあたり、「午」と「五」の音が通じることから、5月5日を指すようになったそうだ。強い香気で厄を払う菖蒲を軒先に吊るし、菖蒲湯に浸かることから「菖蒲の節句」ともいわれる。平安時代は「端午の節会[せちえ]」の宮中行事であったが、武家社会になると菖蒲を「勝負」や「尚武」にかけて兜や鎧を飾るようになり、やがて男子のたくましい成長を祈る行事として定着していった。

※人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)の節供をいい、伝来当初は宮中や貴族社会で行われていたが、江戸時代には式日に制定され、民間行事として広がっていった。

連綿と受け継がれる手仕事の結晶

水仙粽、羊羹粽ともに、5本を1束にして美しく包装される。ゆかしい色目の包み紙には「声なくして人を呼ぶ」など、川端家に伝わる起請文が記され興味深い。(いずれの粽も予約注文のみで、1月・8月を除き通年販売/水曜日定休)

初代道喜が粽を創案した時代から変わることのない材料の一つが吉野葛だ。寒晒しの方法で採取される極上の葛粉は、コシが強くリキがあり、喉ごしのよい葛粽の個性を引き立てる。

 幾重にも巻かれた葉を解くと、笹の香気とともにみずみずしく艶やかな葛菓子が顔を出す。香り高い粽を作り続けているのは、京都の老舗菓匠「川端道喜」。店先には、“御ちまき司 川ばたどうき”と染め抜かれた暖簾が掛かる。創業は、室町後期にあたる1503(文亀3)年といい、伝統ある菓子司が名を連ねる京都の中でも極めて長い歴史を誇る。代々、御所御用の餅座を務め、端午の節句はもとより、即位式や法要の際にも、多くの粽を納めてきた。由来記によれば、初代道喜の創業当時、吉野から宮中に運ばれた葛粉を使った菓子づくりを命じられ、長時間葛を加熱して京洛北の笹で包んだ粽を考案したのが始まりという。洛北鞍馬の根曲り笹は香りが良く、際立った風味の粽は「道喜ちまき」や「御所ちまき」の名で知れ渡り、以後その製法を変えることなく川端道喜の代名詞となって今に至る。

 500年の伝統を持つ誇り高き粽は、長きに渡って現在も継承されている。乾燥した笹を釜の中で青々と蘇らせるのも、吉野葛と上白糖を練り上げるのも、包んだ粽を藺殻[いがら](藺草の殻)で美しく巻き上げるのも、一つひとつが手作業だ。これを熱湯で湯がいて余分な糖分を除き、味を磨くことで唯一無二の粽が完成する。

 葛、砂糖、水、笹の葉。味の継承には良質な材料が欠かせない。山に増えた鹿が笹を餌にするなど、昔からの材料が手に入りにくくなった現在も、洛北の笹、吉野の葛にこだわり伝統を守る。葛と笹の香りが醸し出す繊細な味わいは、古都に季節の息吹を届けている。

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