千光寺の本堂から眺める尾道水道。天気の良い日には四国連山も一望できる。

特集 尾道水道が紡いだ中世からの箱庭的都市〈広島県尾道市〉 瀬戸内随一の海運の都

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数多い名刹と坂道の町、尾道

千光寺山の中腹には古寺を訪ね歩く趣のある坂道や石段、路地が迷路のように巡らされている。

 標高136mの千光寺山を目指した。ロープウェイが山頂まで通じているが、「坂の町」を体感するために歩き始めた。細い路地が縦横に巡り、石畳の坂と石の階段をつないでいる。途中、何度も肩で大きく息を継いだ。そしてふと後ろを振り返ると、風景ははるか足下に、爽快に広がっていた。

 対岸の向島との間の海峡、尾道水道は狭くてまるで川のようだ。間近に船溜まり、行き交うフェリー、造船所のクレーン群が手が届くほどに見える。平坦地は山と海の隙間にわずかで、眼下の町は「尾」のように東西に細長く延びている。山麓の斜面に段々に密集する民家を圧して、古刹の伽藍や塔がすくっと聳え立っている。

 それはまるで尾道をひと掴みするような風景だ。一望できるという意味では箱庭的だが、海と山が織り成す風光や景観を示す他に、中世に始まり、各時代を変遷して今日まで育んできたこの町の来歴と多層の文化を俯瞰できる風景でもある。その重層的な景観が尾道の個性と魅力になっているのではないだろうか。

天寧寺の三重塔の甍(いらか)越しに見る景観は尾道を代表する風景。寺は足利義詮が1367(貞治6)年に建立。創建時は東西三町にわたる広大な大寺院で、現在の三重塔も建築時には五重塔だったといわれている。

尾道市街地の対岸、向島にある岩屋山の山頂から望む尾道三山。

西國寺の仁王門は大わらじで知られる。平安末期に焼失したが、その後、白河天皇の勅令で再建された。伽藍の規模は西国一という意味を込めて西國寺と名づけられた。

 尾道の名が登場する最古の資料は、1081(永保元)年の『西國寺文書』で、「尾道浦」と記されている。が、瀬戸内海屈指の港町になる端緒は、平安時代末期に「後白河院庁公認」の港となって以後だ。現在の世羅郡、当時の大田庄荘園地の米などの積出港となって、周辺各地の物資の集積地として飛躍的に発展していくことになる。

 だが、平安時代以前から瀬戸内海の要所であったことを「尾道三山」の開山が教えてくれる。いずれも寺伝であるが、聖徳太子が浄土寺を創建したのは616(推古24)年。僧・行基によって西國寺が建立されるのは729(天平元)年。また千光寺は空海が806(大同元)年に建立したといわれている。

 なにしろ天然の良港である。尾道三山が北風を遮り、南は大小の島々で守られている。山陽道の要衝で、出雲街道で山陰と南北につながる。海路・陸路の十字路には全国から人・物・富、そして文化がもたらされた。鎌倉、室町時代には海運業者は相当の財を築き、その財力を競うように社寺を寄進した。これが寺の町、尾道の原風景だ。

千光寺の多田住職によれば、「尾道三山の山門はいずれも対岸の岩屋山を正面にして建てられています。岩屋山は古代の巨岩・巨石ミステリーゾーンでありパワースポットなのです」と語る。

浄土寺は1400年前の聖徳太子の開創といわれ、中国地方屈指の古刹。鎌倉時代末期に再興され以来700年。山門の向こうに見えるのは向島の岩屋山。小津安二郎監督の『東京物語』のロケ地となった。

 寺は近世には80カ寺以上あったという。千光寺の多田真祥[しんしょう]住職の話では、「現在でも古刹の数は界隈だけで25カ寺があります。面積当たりでは日本でも屈指です」と話す。「西の奈良」と称されるほど多くの寺が建立され、さらに江戸時代には北前船の寄港地として町は一層沸き返った。

 栄耀栄華[えいようえいが]を謳歌する尾道。主な積み荷は、日本海から瀬戸内を通って大坂へ向かう上り荷は鰊[にしん]、塩鮭、諸国産の米。大坂から日本海へ抜ける下り荷は塩、酒、綿、酢、畳表など。北前船が入港すると町中が祭りのような騒ぎだったという。さらに石見銀山の積出港ともなった。江戸時代、広島藩は「政治」は広島、「台所(財政)」と「文化」は尾道と役割を使い分けた。名字帯刀の豪商が数多く暮らした。

 今日、尾道を代表する千光寺山山麓の景観は実は明治以後で、豪商が別荘や邸宅を競って建てたのが始まりだ。それ以前はことごとく寺領の山林であった。

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