エッセイ 出会いの旅

毛利 衛
1948年、北海道余市町生まれ。理学博士。北海道大学助教授を経て、1985年に日本初の宇宙飛行士。1992年と2000年に宇宙ミッションを遂行。専門は核融合材料科学、真空表面科学、宇宙実験。現在、日本科学未来館館長、京都大学大学院特任教授としても活躍。

「宇宙への旅の原点、福井」

 私の出身地は北海道の余市町です。札幌の北、小樽の西。数年前には朝の連続ドラマ『マッサン』の舞台にもなった日本のウィスキー造りの理想郷として知られる自然が豊かな町です。

 実家はウィスキー工場の隣にあって、獣医師だった父親はマッサンのモデルであった竹鶴さんとは囲碁仲間でした。8人兄弟の末っ子のせいか私は内気ではにかみ屋。人に混じって何かするより、後に物理学者となった兄の影響もあって、こつこつ化学実験や自作の望遠鏡で天体観測するのが好きな少年でした。

 小・中・高校と、現在のように積極的でも行動派ではありませんでした。大学生になるまで旅もしたことがなく、北海道を出たことが一度もなかった。人見知りするそんな私が、大学に入ったその春に列車の独り旅を敢行したのです。人生で最初の冒険、チャレンジ。目指したのは福井市の北にある、現在は坂井市となっている春江町。北陸本線の春江駅です。

 父は過去を語ることがなく、余市生まれの私と福井とはまったく接点がなかったのですが、実は先祖の土地だということが分かった。しかも父の実家は300年も続いた、代々毛利兵左衛門、兵右衛門と交互に名乗る庄屋。祖父は米の品種改良などに尽力しましたが、家財を失い、一家は逃げるように故郷を離れました。そんな毛利家の先祖の土地、8歳まで父が過ごした春江をぜひ見てみたかった。

 ただ、50年以上も前の記憶は不鮮明で旅の行程が思い出せない。おそらく、余市から札幌へと出て、そこから夜汽車に乗って函館へ。青函連絡船で津軽海峡を渡り、日本海沿いに南下して北陸本線で福井駅に降り立ったのでしょう。鮮明に覚えているのは、早朝に福井駅に着いたことと、駅の構内で食べた蕎麦の旨さ。あんなに美味しい蕎麦を食べたのは初めてでした。

 福井では医者である叔父の家に泊まり、祖父や父の話を聞かせてもらうと、祖父は気宇壮大で開拓的な人のようでした。先祖のお墓に参ると、墓石にあの毛利家と同じ一文字三つ星の家紋が彫ってある。よし、次の休みは山口県の萩へ旅しよう。自転車を駅留めで送り、夜行で山口県へ御先祖捜しに出かけました。この時すでに列車で旅する楽しさを覚え、旅することが病み付きになり始めていました。

 席は向かい合わせの4人席に決めていました。最初の福井の旅で、見知らぬ者同士が席を共有する楽しさを知ったのです。場所が違えば人も違う。旅は人間関係を学ぶ格好の場で、老若男女、いろんな職業の人と出会い同席し、話題はいつも絶えなかった。そうして私は異文化を発見し、それをどんどん吸収していったように思います。

 当時の私は、周りの人がみな優秀に見えて自信を持てないでいましたが、旅に出るとそんな迷いが不思議と吹っ切れました。ところで、萩での毛利家のルーツ探しは結局、「福井から余市…、カンケーありませんね」の一言で呆気なくエンド。

 しかしますます回を重ねて九州、四国を含む西日本の各地をずいぶんと訪ね歩いたものです。旅先では必ずといっていいほど、「ご飯食べていきなさい」、「家に泊まっていきなさい」と声をかけられ、何度も何度も人の親切を体験しました。こうしたさまざまな旅での出会いを通じて、宇宙飛行士で最も大切なチームワーク力を自然に会得していたのかも知れません。私の旅はやがて2度の宇宙旅行や深海、極地へと至りますが、その原点となったのが福井への旅だったのです。

 高校を卒業するまでまったく関係のなかった福井は、今では私の心の故郷です。春江町には福井県児童科学館(エンゼルランドふくい)という、科学教育を通じて次代の子どもたちを育むという素晴らしい施設があります。父の生誕地というご縁で、名誉館長を開館以来15年務め、毎年福井に通っています。それも父が引き合わせた不思議な出会いです。

 そして、私には忘れ難い風景があります。スペースシャトル・エンデバー号から眺めた夜の日本列島は眩しい光の線で一筆書きのように繋がっていました。よく見ると、一つひとつの駅と駅が光の点と点となって繋がっている。それを見ているとなぜか目頭が熱くなった。鉄道で日本中が一つに繋がっている、そのことに私は至福の感動を覚えました。

※鉄道便で荷物や品物を送る場合、宛先まで配達せず、到着駅に留めておく扱い。

このエッセイは、談話をもとにまとめたものです。

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