山町筋を巡行する「御車山」。紋付姿で随伴するのが山町の旦那衆で山車の曵き手は近郷の若衆と、昔からの習わし。

特集 加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡 ー人・技・心ー〈富山県高岡市〉 城下町の記憶を受け継ぐ

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山町筋の「御車山祭」、金屋の高岡銅器の匠

山町筋は問屋の町。黒漆喰の土蔵造りは高岡の繁栄のシンボル。分厚い扉は見るからに重厚だ。

「高岡御車山会館」に展示されている御車山。造作は絢爛豪華で、特に車輪に施された緻密な細工は、まさに至芸という芸術作品だ。

 商都の繁栄を今なお色濃く残しているのが、城跡の北西、旧北陸街道に沿った山町筋[やまちょうすじ]の景観だ。黒漆喰の分厚い塗り壁の土蔵造りの商家が通りの両側に並ぶ。この重要伝統的建造物群保存地区は、北前船の交易で繁栄をほしいままにした商都・高岡の顔である。この現在の通りの景観は明治以後の姿だ。1900(明治33)年の「高岡大火」で江戸時代から続く町並みはほぼ焼失した。

 その復興にあたり、行政命令で火災に強い土蔵造りを建てよ、ということで現在の景観となった。明治末期、大正、昭和の古き良き建築の歴史を見るようだ。そんな山町筋で、400年もの間、途切れずにずっと町方に受け継がれている祭りがある。「御車山祭[みくるまやままつり]」だ。山車[やま]は絢爛豪華にして超絶技巧の細工を施してある。

 実は山町という町名はない。御車山の山車を保存している木舟町、御馬出町など沿道の10カ町を「山町」と呼ぶ。国の重要有形民俗文化財・無形民俗文化財に指定された高岡を代表する伝統行事で、各山車は華飾を競っている。前田利家が豊臣秀吉から拝領した聚楽第[じゅらくだい]行幸に使用した御所車[ごしょぐるま]を、利長が高岡城築城の折に城下の町民に与えたのが起源だという。

 通り沿いの「高岡御車山会館」に立ち寄った。間近に見る山車は御所車形式に鉾を立てた形で、金工、漆工、染織など細部まで緻密な飾り細工が施されている。まさに高岡の伝統工芸の集大成だ。そして感じたのは、御車山祭は高岡の伝統であると同時に、贅の限りを尽くした商人の心意気と商都の富の証であると。

鋳物師の町、金屋町の石畳の通り。かつて家々の奥にはどこも鋳造の工場があった。現在は多くが郊外に移転したが、資料館やギャラリーや販売店などがあり、通りを歩けば品の良い趣が漂う。

 山町筋を西に進み、千保川[せんぼがわ]を渡ると金屋町だ。城下で最も古い町の一つで、砺波郡の西部金屋から利長が呼び寄せた7人の鋳物師に土地を与えたという高岡鋳物発祥の地。袖壁があり軒も深く、板庇やサマノコと呼ばれる格子が設けられた真壁造りの町家が軒を連ねる。山町筋の土蔵群とは趣が違うこの一帯も、重要伝統的建造物群保存地区となっている。招かれた鋳物師は土地を与えられ、諸役をも免除されて鋤[すき]や鍬[くわ]の農具や、鍋や釜などの日用品を鋳造した。やがて釣り鐘や仏具、灯籠や茶道具、花器、ブロンズ像などの美術工芸品を造り、海外にも多く輸出された。一方で象嵌[ぞうがん]や彫金など緻密な装飾性と美術性を高めていく。こうした銅器の製造、金属加工は現在も高岡の経済を担っている。

金屋で今も鋳造を続ける神初さん。最近は観光客に鋳造体験をさせてくれる。「北陸新幹線が開通してお客さんも増えたね。高岡銅器をもっとアピールせな」。

有礒正八幡宮(ありそしょうはちまんぐう)の「ふいご祭り」。御祭神で鋳物師の祖神「石凝姥神(いしごりどめのかみ)」に高岡銅器の発展を祈願し、鋳造の技を奉納する。

 「鋳物工房 利三郎」に寄った。高岡銅器伝統工芸士で4代目当主の神初[じんぱち]宗一郎さん(82)は、伝統の手技にこだわり、この金屋の地にずっとこだわる。「今や、金屋に工場をもって製造している家は3、4軒くらいです。みな郊外に転出しました。鋳物師の町で今も仕事を継いでこそ伝統です。私はここにこだわります」と神初さんは言う。

 通りに面して店、そして仏間、座敷と続き、中庭を隔てて土蔵、その奥が吹場とよばれる作業場。これが鋳物師の家の特長で、利三郎では観光客が鋳造を体験できる工房も設けた。「けっこう人気があります。海外の方も来られます」と言いながら神初さんは、シボリという金属加工の技で花器の口を作る作業を披露してくれた。

 城下町から世界にも通用する商工業都市に見事に生まれ変わった今日の高岡。前田利長、利常の遺志はこの町の伝統として、高岡の「人・技・心」に受け継がれ今も進化し続けている。新高岡駅への帰路、再び瑞龍寺に参詣した。伽藍配列の延長線にある雪の立山が夕陽に照らされた。まさに幽玄の世界に入り込んだように思えた。

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