曹洞宗の名刹、瑞龍寺は加賀前田家2代当主の利長の人柄、治世の功績を称えて3代当主・利常が建立した菩提寺。高岡の“精神的シンボル”だ。

特集 加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡 ー人・技・心ー〈富山県高岡市〉 城下町の記憶を受け継ぐ

2ページ中1ページ目

前田利長、利常の遺志を継ぐ町民文化

瑞龍寺法堂の中央に前田利長の位牌が安置されている、寺名は法名の「瑞龍院」に因んでいる。

 北陸新幹線の新高岡駅から北へ、歩いてもそう遠くないところに曹洞宗の名刹がある。高岡山瑞龍寺[こうこうさんずいりゅうじ]。山門、仏殿、法堂は富山県で唯一の国宝だ。伽藍は一直線状に並び、左右に回廊が巡らされて諸堂が対称的に配置されている。山門に立って眺める佇まいは、豪壮でありながらも、漂う気配は凛としていて、禅寺らしく端正である。

瑞龍寺31世住職の四津谷道宏師。軽妙洒脱で明快な解説は見学者に人気がある。「開かれたお寺にしたい」と講演のほか、さまざまな活動を行っている。

 瑞龍寺は加賀前田家2代当主・前田利長の菩提寺で、法堂中央の壇に「瑞龍院」の位牌が安置してある。「瑞龍は利長公の法名。建立は3代当主の利常公で、完成に20年かかっています」と四津谷道宏[よつやどうこう]・瑞龍寺31世住職が話す。そして門前に続く長い八丁道[はっちょうみち]の先に利長の墓所があり、さらに先には霊峰・立山の優美にして屹立[きつりつ]した姿があった。

 山並みは今も変わらない風景だが、富山湾に注ぐ庄川、小矢部川の扇状地は、かつて「関野」と呼ばれる荒れ地だった。この地を、中国の詩経の一節「鳳凰鳴けり彼の高き岡に」に由来して「高岡」と名付けたのは、前田利長だ。加賀藩主を異母弟の利常に譲り、利長は金沢城から富山城に隠居するが、4年後に火災で城を失い、魚津城にやむなく移る。

 その一方で高岡に城を築き、1609(慶長14)年に城下町を開いた。縄張り(設計)をしたのはキリシタン大名の高山右近といわれ、隠居城とはいえ金沢城に劣らない規模と堅牢な城だったそうだ。現在古城公園になっている城跡を一周すると城の大きさがうかがい知れる。開町時の記録には家臣434人、町家630戸とある。城下町、高岡の第一歩だ。

 城下町を整備するにあたり、利長は近隣地域から多くの商人や職人を呼び寄せ、城下の振興策を進める。商工業を大いに発展させ、経済的に強い機能を備えた城下町の完成を利長は目指していた。砺波郡の西部金屋から7人の鋳物師[いもじ]を呼び寄せる一方、商売を促進するのに旧北陸街道が城下の中心を貫くようにし、町割を碁盤目状にした。

高岡城は利長の隠居城だが、二重の堀に囲まれて5つの郭を備えた堅固な城だった。堀と石垣はほぼ築城時のままで、城跡は古城公園として市民に親しまれている。

現在の高岡大仏は高岡銅器の職人によって1933(昭和8)年に鋳造されたもの。高さ約16mの阿弥陀如来坐像で、奈良・鎌倉の大仏と並び「日本三大仏」と称される。

高岡市伏木の「伏木北前船資料館」。全国から物資が集散した伏木には廻船業で財を成した豪壮な屋敷が何軒もあった。

『年未詳五月三十日付前田利長書状』。高岡城の造成中に利長が側近に、鋳物師に高岡へ来て仕事をするようになどと指示をした文章で、鋳物師たちに城下の土地を与え、さまざまな特権を与えた。(高岡市立博物館所蔵)

 そんな町づくりの矢先に、利長は53歳で病没。不運は続き、幕府の「一国一城令」で高岡城は廃城となるのだ。家臣は全員、金沢の本城に引き上げる。町は急速に活力を失い、衰退する。存立の危機に陥った町の窮状に、利常は敬愛する異母兄、利長の遺志を継ぎ、むしろそれまで以上に商工都市への政策転換を強力に推進する。

 商工主体の町づくりを進める政策には、一定以上の人口が必要で、そのために利常は商人や職人、町人が町を離れることを固く禁じる他所転出禁止とした。廃城は止むなき事情とはいえ、町が生きていくためには、地場の産業で自立し、商工都市に邁進する他ないと考えた。そのため高岡を直接差配し、さまざまな策を施してゆく。

 廃城になったが堀や石垣はそのまま残し、城内に加賀藩の米蔵や塩蔵を設けて、高岡を加賀藩の物流拠点として機能させる。麻布や綿花の集散地に指定し、御荷物宿、魚問屋や塩問屋などの創設も認め、職人や問屋を保護する。さらに富山湾に臨む伏木の港は、北前船交易で全国各地からさまざまな物資が集散し、高岡は繁栄を謳歌していった。

 商工業の発展のために手を尽くした利常のこれらの政策が功を奏し、江戸から明治、大正を通して高岡は「北陸の大坂」と呼ばれる経済都市に発展した。利長から利常に継がれた遺志は、利常亡き後も加賀藩の政策として継承されたという。そして2人の当主の都市経営の手腕は歴史的な町の景観に今でも見ることができる。

 城下町を源流としながら職人や商人などの町人が一体となって発展を遂げた高岡。日本遺産登録のストーリーの一方の主役は町の歴史を担った「町民文化」だ。

ページトップへ戻る
次のページを読む
  • 特集1ページ目
  • 特集2ページ目
ローカルナビゲーションをとばしてフッターへ