「日刀保たたら」では日本刀の伝統保存と、たたら製鉄の技術保存を目的に年に1度、3回だけ操業し、玉鋼を全国の刀鍛冶に提供している。(協力・写真提供/公益財団法人日本美術刀剣保存協会)

特集 出雲國たたら風土記〈島根県安来市・奥出雲町・雲南市〉 たたらの古里、出雲へ

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玉鋼の伝統技術を引き継ぐ「日刀保たたら」

奥出雲町原口地区の鉄穴流しの跡地を再生した棚田風景。棚田には「残丘」が点々と残る。

奥出雲町横田の「奥出雲たたらと刀剣館」。たたら製鉄の歴史や文化など、鉄づくりの工程を詳しく説明する。玄関横のオブジェは、八岐大蛇を表現している。

 奥出雲町へと向かう途中の山々は新緑に輝き、段々に連なる棚田の風景が続く。里山の麓には小さな集落が点々としている。こののどかな風景が、たたら製鉄と関係があるのが意外だ。大量の砂鉄と木炭を必要とするたたら製鉄は、山を切り崩し山林を伐採することから自然環境を荒廃させかねない。

 しかし、近世のたたらはそうではない。「鉄方御方式」で松江藩と鉄師が協力して、持続と再生可能な資源の利用を行っていたのだ。鉄穴流しの跡地を棚田に再生し、山林の伐採も木が成育する約30年の周期で循環させて利用した。自然と共生する生産システムを当時から「企業」の責任として鉄師は実践していたのだ。

 その結果、自然は荒廃から免れ、現在の美しい風景が残された。鉄穴流しの跡の棚田は日当たりと風通しが良く、定評のあるブランド米になり、蕎麦の栽培も再生地で盛んに行われて出雲の名産になった。鉄穴流しは神社や祠[ほこら]、代々の墓地などを避けて山を切り崩したために、「残丘[ざんきゅう]」と呼ばれる小さな丘が棚田内に点々と残り、風景に特徴を与えている。

 しかし現在、たたら製鉄は商業的にはすでに途絶えてしまっている。江戸時代には全国に鉄を供給し明治期になっても地域経済を支えたが、洋式製鉄に押しやられ、1925(大正14)年に最後の火も消えた。その後、大戦中に一時復活したが、今では船通山の麓、奥出雲町大呂[おおろ]の「日刀保[にっとうほ]たたら」のみ、たたら製鉄を行っている。

炉を壊して底に溜った約2tのけらを取り出す。玉鋼はこのけらに含まれている。
(協力・写真提供/公益財団法人日本美術刀剣保存協会)

「日刀保たたら」の村下・木原さん。木原さんは、最盛期のたたらを知る最後の村下と呼ばれた安部由蔵さんに師事し、村下のイロハを一から教わった。

「奥出雲たたらと刀剣館」では月に2回、地元の刀匠による日本刀の鍛錬実演を見学することができる(要予約)。

 公益財団法人 日本美術刀剣保存協会が、1977(昭和52)年に、重要無形文化財である日本刀の伝統保存とたたら製鉄の技術保存を目的にたたらを復活させ、毎年1月から2月にかけて、非公開で「三代(3回)」に限ってたたら製鉄を行い、玉鋼を全国の刀匠に提供している。日本刀は玉鋼がないとつくれないのだ。

 玉鋼を供給できなければ、世界に誇る日本刀の制作技術の存続も危うくなる。日刀保たたらの鉄づくりを差配するのは木原明さん(82歳)と渡部勝彦さん(78歳)の2人の村下だ。ともに「国選定保存技術保持者」で、世界で僅か2人の玉鋼製造の「たたら吹き」。そして養成員が11人おり、後継者の育成も日刀保たたらの重要な使命だ。

 木原さんは言う。「一に土、二に風、三に村下。重要なのは材料の吟味、炎の勢い、色、炉の状態など全体のバランスです。難しいけれど、たたら製鉄の伝統と技術を絶やすわけにはいきません。日本刀は日本の精神なのですから」。

 奥出雲町横田の「奥出雲たたらと刀剣館」では日刀保たたらの玉鋼を使って日本刀を鍛錬する実演を見ることができる。横田からさらに、金屋子神社の総本社がある安来市へと向かった。製鉄技術を伝えた金屋子神は境内の桂の木に降り立ったといわれ、製鉄や金属に関わる人には、とても大切な神様である。

安来市の山中にある金屋子神社。全国各地にある金屋子神社の総本社。春と秋の例大祭には、全国の製鉄や鉄に関係する企業が参拝に訪れる。

 中海に臨む安来は鋼[はがね]の町でもある。安来港から北前船で積み出されて大坂、北陸ほか各地へと出雲の鉄は流通した。鉄師の田部家も4隻の千石船を安来港に所有していたという。そうして各地の文物がもたらされた安来の繁栄ぶりを唄ったのが、どじょうすくいの踊りで有名な安来節。港に佇んでいると不意に、鉄を満載した北前船の出船、入船の賑わいが目に映った。

 やはり出雲の不思議さゆえの幻影だろうか。神代の昔から神話とともに育まれた奥出雲地方のたたらの風土、その風景は山川草木の全てに神さびていた。

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