エッセイ 出会いの旅

くらもちふさこ
1955年生まれ。東京都出身。漫画家。武蔵野美術大学造形学部日本画科中退。1972年集英社別冊マーガレットよりデビュー。主な作品として、『いつもポケットにショパン』『東京のカサノバ』『天然コケッコー』『α』『駅から5分』『花に染む』など。1996年『天然コケッコー』で第20回講談社漫画賞受賞。2007年同作品が実写映画化。

ガタタンゴトトン

ガタタタタンガタン、ガタンガタン。高校生の頃、住んでいたマンションは駅前のロータリーに在り、近くには貨物の駅や鉄道好きの男児が大喜びしそうな東北新幹線が目の前を走るという環境にあったので、終電近くまで賑やかであった。仕事柄徹夜が多かったが、もちろん通常サイクルの生活を送ることもあるので、朝の4時半頃に始発電車の走行音を聞きながら睡眠をとっているというのも毎度の事だ。そんな中で数年間暮らせば音にも慣れると言いたいところだが、自分の中では、もう少し前に遡った時期にそれは迎えていたように思う。私はギリ東京生まれである。「ギリ」と付けたのは、母が大きな腹を抱え島根県から上京して間もなく生まれているからだ。母の実家は正直遠い。島根県は西部、日本海に面する浜田市。実家に向かうまでは浜田駅からさらに車で国道9号線を数十分走らせる。今のように飛行機が就航していない時代だったので、物心ついた頃から十数年間、夏休みを利用した母の里帰りは、専ら「寝台特急出雲号」のお世話になっていた。今は、ちょいと良い旅するなら「サンライズ出雲」の名前で広く知れ渡っているが、当時の出雲号は、東京駅から浜田駅間を運行しており、よく利用していた3段式B寝台の車室区画内は開放式の6人掛けで就寝時は寝台のカーテンのみで仕切られる。大人にとっては、やや窮屈な状況に違いなかったが、子供には、「○○ごっこ」が出来る絶好の遊び場であった。特に私は、荷物置場とさほど変わらない、言い換えれば、ヒラメのように平べったくなる空間しかない上段を好んだ。閉じられたカーテンに隙間を作り、下の様子をそっと覗く。それはまるで天守閣から城下町を望む小さな城の殿様気分を味わえる。深夜トイレに立つ人。ボソボソ小声で語り合う人々、通路側の壁に備え付きのイスに座り、のんびりタバコを燻らす人。時々「あっすみません、間違えました」などの声も混ざり賑わう城下町。その賑わいが徐々に消え、いつしかガタンゴトンが主旋律に変わり子守歌となる。途中駅に着き、合図も無く再び静かに発車する。寝台車ならではの、その静けさはとっておきで、今でも好きと言える。翌朝浜田駅に到着すると、迎えの車が待っている。当時の浜田駅前のロータリーは、今のように神楽時計が設置してあるわけでもなく、ビルもどれほどあったか記憶に乏しいが、私の目に飛び込んでくるのはひときわ輝く「ティーパーラー」の文字。当然あの店でアイス食べたいとなるのだが、ここは大人しく迎えの車に乗り込む。なぜなら、そのパーラーには、帰りの出雲号の発車までの待ち時間に入れることを知っているからだ。母の実家に到着すると、挨拶代わりに祖父母と抱き合い、伯父叔母、同世代の従妹達から手厚い歓迎を受ける。裏庭では蝶や蝉を追いかけ、かき氷を食べ、昼寝の後には、親族皆で海へ泳ぎに行き、夜は近くの町まで神楽舞を見に行くというはじけた夏休みを10日間余り過ごし、涙ながらに従妹と別れを告げる。(一年後には会えるのだが)そうして、往きとは違った少々淋しい気持ちで駅前のパーラーにて、トーストとジュースを頂きながら出雲号の発車時間を待つ。それから半世紀近く経ち、仕事の関係で、このティーパーラーのご主人と年賀状のやりとりをするご縁が出来たのだが、当時の親族の大黒柱達が他界したこともあり、年老いた母との里帰りはめっきり減っていた。そんな折、パーラーのご主人が亡くなられたと奥様からの知らせを受け、田舎が無くなってしまうような感覚に陥りただただ寂しくなった。ところが、年賀状は今年も引き続き届けられている。奥様からだった。「浜田に帰られた時には、お立ち寄りくださいませ」と一言添えられている。ふと、ティーパーラーで紅茶を飲む為に島根に行こうか?と気持ちが動いた。線路は、その土地と土地を繋げるだけでなく、人と人とを繋ぎ止めてくれているような想いが湧く。

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