「石川県立白山ろく民俗資料館」では、ダム建設時に移築された白峰の伝統的な民家が保存され、かつての山村の暮らしや文化を伝えている。

特集 石川県白山市白峰 牛首紬

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山里の暮らしを支えた養蚕と生糸

白峰の集落は手取川上流に位置し、大道谷川に挟まれた段丘上に家々が建つ。両岸は険しい山が迫り、白峰地区には耕作地がほとんどない。

 もう春も過ぎようというのに山々はまだ銀世界。柔らかな陽光を浴びて眩[まぶ]しく白銀が輝いている。家々の屋根は真綿を被せたようで、軒先からは雪解け水がしたたり落ちている。それでも今年は雪が少なかったそうで、例年は4m以上もの雪に埋もれる。

 白山市白峰地区は石川県の最南、福井県との県境に近い霊峰白山の西麓にある。河口で広大な加賀平野をつくる手取川の源流部の谷間にある山里で、川沿いの段丘上の狭い土地に家々は細長く密集する。戸数は約270。町村合併前は白峰村、明治初めまでは牛首村と呼ばれていた。大正時代に車道が通じるまでは、一番近い隣町である福井県勝山まで徒歩で1日を要した。

 冬は豪雪に閉ざされて孤絶したが、そんな環境が固有の文化を育んだ。今でも古老たちが話す「ジゲ弁」は白峰独特の方言である。男性一人称は「ぎら」、複数は「ぎらら」。いらっしゃいは「ございの」、雪がたくさん降ることは「でかいこと降っちゃけ」といった具合だ。

民俗資料館に移築された旧杉原家の住宅。近世には大規模な養蚕で栄えた家で、2階で蚕を飼育し、空気と風通しのためにいくつも窓が設けられている。2階の窓から薪などを入れるための大梯子が掛かる。

 集落の歴史は、奈良時代に泰澄[たいちょう]大師が白山を開山した時から始まる。牛首という不思議な名は開山の折、守護神として大師が牛頭天王[ごずてんのう]を祀ったのが由来とされ、その「牛頭」が語源とされるが、牛の首のような地形だからという説もある。この地は白山が開かれて以後、登山道口の要地であった。現在は白山の登山客や温泉客、冬にはスキー客が訪れる。

 それらは現在の白峰の重要な観光資源となっているが、それ以前の村民の暮らしはどうだったのだろう。狭い土地に耕地はなく、米は昔から他所から買うものだった。その代わりに、自然を生かす白山の恵みと仕事があった。『白山奥山人の民俗誌』という文献に、江戸時代から昭和40年代までの集落の暮らしぶりが記されている。

 春から秋まで家族全員で村を離れ、山の奥地に出作り小屋を設けて、山の斜面を利用した焼き畑耕作でアワやヒエなどの雑穀や桑を栽培した。その他、養蚕、炭焼き、ワサビ栽培、熊や鹿の狩猟、薬草の採取に山案内や歩荷[ぼっか]など。時代と季節に応じて多様な仕事を組み合わせて収入を得たというのである。

 中でも、山里の暮らしを支えたのは養蚕と製糸。「牛首の蚕飼[こがい]は大蚕飼」と歌われるほど、繭[まゆ]や生糸の品質が良く、京都や大阪をはじめ各地で珍重され、高値で取引されたという。雪に閉ざされた長い冬の間、集落のどの家でも女性たちは、家計の足しにと繭から丹念に糸を紡ぎ、夜遅くまでカタカタと一心に機を織った。

 そんな山の暮らしの中で生まれたのが牛首紬で、800年もの歴史がある。集落にはこんな伝承が語り継がれている。

—平安時代末期の平治の乱に敗れた源氏の落人が、牛首村に隠れ住み、その妻女が機織りの技術を村人に伝授した—。伝承だが、それ以来、養蚕と機織りが山深い耕地を持たない集落に恩恵をもたらしたことは確かだ。

 県道で北は金沢市、南は勝山市へと繋がる現在の白峰に僻村[へきそん]のイメージはない。ただ、手取川両岸に迫る険しい山々に囲まれた白峰の家並みが、かつての山里の暮らしを伝えている。集落のほぼ全域が重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、たいていの家々は黄土色の土壁で、2階、3階のある大きな構えである。

 豪雪のために、家には下屋根や軒屋根がなく土蔵のような造りで、上層の階では蚕が飼育された。白峰の伝統的な建築である。この慎ましい集落の風景は、養蚕と牛首紬で潤った山里の歴史の記憶でもある。

(左)牛首紬の刺し子作業衣。織りの年代は不明だが、染めは大正時代と思われる。

(右)普通の繭と玉繭。右の大きな繭が玉繭。二匹の蚕が同時に一つの繭を作ったもので、通常の繭より2倍以上の大きさがある。

白峰地区の町の佇まい。右手前は代々名主として集落を治めた山岸家住宅。

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