エッセイ 出会いの旅

松本 零士
1938年生まれ。福岡県久留米市出身。漫画家。代表作に『銀河鉄道999』など。SF漫画作家として知られるが、少女漫画、戦争もの、動物ものなどさまざまなジャンルの漫画を描いている。アニメ製作にも積極的に関わり、1970年代半ばから1980年代にかけては松本アニメブームを巻き起こした。旭日小綬章、紫綬褒章、フランス芸術文化勲章シュバリエ受章。

運命のレールウェイ、今は新幹線が走る夢の道

 

今は、新幹線で4時間台。乗ると夢を見る。こんな夢だ。

機関車の轟音は私にとっては子守唄。北九州福岡小倉市に住んでいた戦後の生活、亡国の民の坩堝の中で、路線の脇の、五軒長屋で暮らしていた小学校、汽車の音は空気と同じ自然の存在で、とても気持ちのよい日常だった。私はそういう環境の中、漫画を描き、勉強という名の少年の義務を果たしていた。

その線路の側に住んでいたという現実がやがて現在の自分の生涯を作ってゆく最大の時空的要素となった。15才、高校1年生の時は、雑誌に漫画賞で入選し、門司港にあった毎日新聞西部本社で、毎日小学生新聞の連載やカラー4色の半頁の作品を掲載させて頂けるようになった。

 

しかし、時は未来を選ぶ、人生で最も重大な時期と一致していた。このまま漫画家への道に進むか、火星へ行き、そこで住むのが妄想的夢でもあった自身の心の分岐点という、重大な進路への分岐点と時期が重なってしまっていたのだ。

 

機械工学を目指して工科系大学を妄想していた自分と、「松本、お前大学へ行かんでもいいのか?」と授業中に、とある先生から揶揄されるという、絶対的運命の瞬間に立ちすくんでしまう、青春最大の危機の分岐点に立ちすくんでいた瞬間だったのだ。

 

運命は不思議なもので、我が家は、敗軍の将の一族で、公職追放され、収入は路上の八百屋で、私自身も学校の行き帰りに露天の路上で宿題したり、本を読んだり、漫画を描いて、学費や家計費を稼いでいた。ただ、青春とは元気なもので、それを恥とも苦とも何とも感じてはいなかった。ただ、自身の未来をどうするのか?という大問題のみ頭の中で轟風となって渦巻き、吹き荒れ、悩みと言えば、ただそれのみという時期だった。

 

今、想えば人間にとって、青春とは何と素晴らしく幸せな瞬間だろうか、と今となっては懐かしい。天空を望む機工科は弟に委ね、任せて、時に備えて、現代の道へと準備にかかった。やがて、雑誌の連載を始めた高卒後5ヵ月後ぐらいの18才の10月頃、上京する運命が待っていた。

 

何故卒業後5ヵ月ぐらいかというと、実は毎日西部本社の毎日小学生新聞の編集部長から、卒業したら、「ここへ来い」と命ぜられ、自分自身もその覚悟で予定していた。ところが、その部長以下全員が大阪本社へ栄転してしまい、自分独りが、置いてきぼり、置き去りとなって着陸点を失ってしまったのだ。

 

青春の必死の指針は、不思議にも、その夢を叶えてくれた。少女雑誌からの連載の依頼が来て、月刊誌へ描き始め、さらに別冊付録まで描けるようになった。

そこへ雑誌社から手紙が来た。

「一刻も早く勇姿を現したまえ!!」という手紙が来た。しかし私には上京するお金が無い。「勇姿を現したいと思うのでありますが上京するお金が有りません、原稿料の前借はさせて頂けないでしょうか?」…と返信を送ったら返事が来た。「来れば渡す」……これが運命が定まった瞬間だった。

 

ありとあらゆる本やサンプルの全てを質屋さんに入れ、切符代を何とか得て、上京を決意した。「俺は上京する、死んでも帰らん!!」と親、兄弟姉妹に公言して、上りだけの切符を買って、画材のみ入れた袋を持って小倉駅から24時間の東京への旅に出た。

これは誰にも、訪れる生涯の一瞬に起きる宿命の旅立ちであった。若者は皆、旅立ちの覚悟をしろ、それが人間の運命だと今も、あの汽車と線路の音の響きをはっきりと記憶している。

もし、この時、あの汽車に乗って居なかったら、今の俺はどうなっていただろうか?と。……

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