沿線点描【草津線】草津駅から柘植駅(滋賀県・三重県)

旧東海道の宿場町を辿り、甲賀の忍びの里へ。

滋賀県の草津駅から 三重県の柘植[つげ]駅まで約37km、11駅の草津線。 東海道五十三次の宿場町を巡りながら、 甲賀流忍者のふるさとを経て 山間にある交通の要衝、柘植へと向かった。

草津線と東海道本線が交わる草津駅。古くから交通の要衝として発展してきた草津の町は滋賀県で二番目に多い人口をもつ都市となった。

当時の本陣が残る宿場町を辿る

 草津線の前身である関西鉄道が開通したのは1889(明治22)年。「明治の五大私鉄」と謳われた鉄道史に残る路線で、1907(明治40)年に国有となり、現在の草津線に引き継がれている。

 旅の起点、草津は近江国湖南の滋賀県第2の人口を有する都市で、江戸時代随一の幹線道路の旧東海道と旧中山道が交わる宿場町として賑わいを見せた交通の要衝だ。最盛期には旅籠[はたご]が70軒を超え、500の町家が軒を連ねたという。その活況のシンボルが国の史跡指定を受ける草津宿本陣跡で、ほぼ当時のままの姿で残っている史跡だ。また、本陣跡周辺は草津宿の中心地で、旧東海道と旧中山道の分岐点には追分道標が建つ。かつて旅人たちの指標の役割を果たした。細い通りには格子の町家や表具屋、提灯なども扱う傘屋など往時を偲ぶ店が連なり、風情が感じられる。

国指定史跡の草津宿本陣跡。大名や幕府の要人が休泊した。現存する本陣の中で、最大級の規模を誇る。

旧東海道と旧中山道の合流点で、多くの旅籠が軒を並べた草津宿。写真右は、旧東海道と旧中山道の分岐点に建つ火袋付きの追分道標。「右東海道いせみち 左中仙道美のぢ」と刻まれている。江戸時代に、行き交う多くの人の道しるべとなっていた。

 アーケードの商店街を貫く旧中山道を通り、草津駅へ。駅を離れた電車は、約10分で石部[いしべ]駅に着く。石部もまた宿場町で知られ、京都からの距離は約39km。かつての大名たちが京都を朝に出立すれば、ちょうど宿泊するのにほどよい距離とされたことから石部宿は「京立ち、石部泊り」と言われた。旧東海道の宿場町は関ヶ原の戦い後、徳川家康が江戸から京へ兵を迅速に進軍させるために整備を急ぎ、要所に五十三の宿場を設けたことに始まる。その後、参勤交代など交通量の増加に伴い、宿場町は活気に湧いた。

東海道五十一番目の宿、石部宿の西縄手に建つ東海道五十三次図の碑。日本橋〜京都を結ぶ東海道の宿が安藤広重の浮世絵とともに彫られている。

 電車の車窓からは、「近江富士」と呼ばれる標高432mの三上山[みかみやま]の山容がくっきりと姿を現し、乗客たちもその佇まいに引き込まれている。甲西[こうせい]駅を過ぎた電車は明治期のレンガ造りの大砂川トンネルをくぐり、杣[そま]川を渡れば私鉄や第三セクターの鉄道も乗り入れるターミナルの貴生川[きぶかわ]駅だ。

手原駅前、手原SL公園に保存されるD51型403号機。草津線では、1972(昭和47)年10月まで蒸気機関車牽引による列車が運行されていた。

明治期の半円アーチ型レンガ造りの大砂川トンネル。トンネル上は、天井川になっている。

 駅の北側に広がる水口[みなくち]宿は、東海道五十番目の宿場町。豊臣秀吉ゆかりの城下町だったが、時代が移り旧東海道の要所の一つとして水口宿と改められた。江戸後期には本陣や脇本陣、40軒余りの旅籠があったとされ、「街道一の人留め場」と言われるほどの賑わいを呈したのだという。

貴生川駅付近を流れる杣川の清流。草津線は貴生川駅を過ぎると旧東海道から離れ、杣川に沿って柘植方面へ向かう。

信楽の山並みを背景に田園の中を走る列車。(三雲駅から貴生川駅)

甲賀流忍者のふるさとへ

 電車は穏やかな田園風景を車窓に甲南駅を過ぎる。西に信楽[しがらき]の山々、東に鈴鹿山脈を望む甲賀の大地は、戦国の世を駆け抜けた甲賀忍者の里で知られる。「甲賀武士」と呼ばれる甲賀の土豪たちは領主権を求め奔走、活躍した。中でも、甲賀武士の存在を世に知らしめたのは、室町幕府9代将軍足利義尚が親征した「鈎[まがり]の陣」での奇襲攻撃だ。その活躍が認められ、「甲賀五十三家」または「甲賀二十一家」と称し、独自の組織を形成していった。寺庄駅から西にほどなく行くと、その名残の甲賀流忍術屋敷がある。国内唯一の本物の忍術屋敷は、甲賀武士のかつての住まいで、屋内には落とし穴やどんでん返しなど、さまざまなからくりが施されている。また、映画やドラマでお馴染みの手裏剣やまきびしなども展示されている。

約300年前に建てられた甲賀武士五十三家筆頭、望月出雲守の屋敷である甲賀流忍術屋敷。屋敷内では、屋根裏に続く縄ばしごや落とし穴など、実際に使われていたさまざまな仕掛けを見学できる。


 甲賀[こうか]駅を過ぎた電車は鈴鹿山脈から流れる杣川を遡るように走り、油日[あぶらひ]駅へ。「おかえり、おかえりー」。大きな声で迎えてくれる駅員さんは、「油日駅を守る会」の瀬古龍郎さん。油日駅を支える地域ボランティアの一人だ。「この駅は地域の皆さんに必要とされる駅で、なくてはならない駅ですから」と瀬古さんは胸を張る。駅舎の外観も独特で、忍者が巻物を携えた姿をモチーフにしている。

忍者が巻物を携えたイメージの駅舎に改築された油日駅。

駅員を務めるのは、地域住民たちで結成された「油日駅を守る会」の瀬古龍郎さん。駅員は2人で、交代で乗客を迎えている。「10年以上、駅員を務めていますがやりがいありますよ。“いつもありがとう”と言ってもらえるとうれしいんだよ」、と瀬古さんは話す。

 駅から歩いて30分ほど離れたところに、作家の白洲正子が著書『かくれ里』で取り上げた油日神社がある。静まり返った境内は奥ゆかしく、幽寂で神気に満ちている。油の神様として崇められ、境内には油業者が奉納した油缶がいくつも積まれていた。

 油日駅を離れた電車は、山の中へ分け入るように走る。線路は徐々に傾斜となり、まもなく県境の終着駅、柘植に到着する。ここはもう三重県伊賀国。山間の柘植駅は標高243mで、気温もぐっと下がる。関西本線も乗り入れる乗換駅は、三重県で最初に開業した駅で、ホームの片隅にその歴史を伝えるレンガ造りの倉庫が残っている。

 草津から約40分の短い旅は、宿場町や甲賀忍者の里を巡る歴史情緒に溢れた旅であった。 

油の神として油日大明神を祀ったと伝えられ、全国の油業者の信仰を集める油日神社。

1890(明治23)年の柘植駅開業当時に建てられたレンガ造りの倉庫がその歴史を伝える。

東海道五十一番目の宿、石部宿

「京立ち、石部泊り」という言葉があるように、京都を朝立った旅人の多くは石部宿に泊まったとされる。京都から石部までは約39km。

安藤広重の『東海道五十三次』の石部宿に描かれた田楽茶屋を再現した「石部宿 田楽茶屋」。

 石部駅から南に少し足を延ばすと、石部宿として活況を誇ったかつての宿場町の名残が点在する。石部は伊勢へ参る街道としても人の往来で賑わい、幕府直轄と膳所[ぜぜ]藩直轄の2つの本陣が置かれた。最盛期には長さ約1.6kmの石部宿に、旅籠32軒を含む458軒が街道に建ち並んでいたという。東海道五十一番目の宿場町の様子は浮世絵の大家、安藤広重が『東海道五十三次』の中で描写している。描かれた石部宿の風景は田楽茶屋の様子で、石部の象徴として2002(平成14)年に再現された。

 「浮世絵に描かれた茶屋は、この近くにあったと伝わっています」と話すのは、「石部宿 田楽茶屋」で働く山本艶枝さん。時代の流れで商店街など町の様子は大きく変わったそうだが、遠方からでも安藤広重ゆかりの風景を一目見ようと訪ねて来る人が多いという。また、茶屋は地元の人たちで賑わう社交場になっていて、名物の味噌田楽や石部宿の伝統食、「いもつぶし」を食べながら談笑するのだとか。

 旧東海道に面した格子に瓦の町家の家並みは、情趣に富んだ雰囲気を醸している。安藤広重も歩いた街道は、今も静かに時を刻んでいる。

石部出身で茶屋を切り盛りする山本艶枝さんは、「地元の人たちの憩いの場になっています。遠方からも田楽を食べに来てくれるんですよ」と話す。こんにゃくと豆腐を味噌であえた田楽は土日限定。

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