エッセイ 出会いの旅

六代 桂 文枝
 本名は河村靜也。1943年生まれ、大阪府出身。1966年、関西大学在学中に、桂小文枝(故・五代目桂文枝)に入門し、三枝と名付けられる。1967年、ラジオの深夜番組に出演し、若者に圧倒的な支持を得る。1969年にテレビの司会に抜擢されてから、数々のレギュラー番組を担当する。1981年、「創作落語」を定期的に発表するグループ、落語現在派を旗揚げし、現在までに240作以上の作品を発表。2度の文化庁芸術祭大賞、芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞し、2006年秋には紫綬褒章を受章した。また2003年第6代目の上方落語協会会長に就任。大阪の文化振興に貢献したことにより大阪文化賞特別賞を、2007年には菊池寛賞を受賞し、秋の園遊会に招待された。2012年、六代 桂文枝を襲名。国内外で独演会や講演会を開催するかたわら、大学で特別講義を担当するなど教育・文化活動にも力を注いでいる。

『伊豆の踊子』のような旅の思い出

 苦学生だった私にとって初めての旅は大学の3回生の時です。通っていた大学には「学長が2人いる」と言って憚らなかった私がもう1人の学長です。落語研究会でなく「落語大学」と名乗っていたので、つまりもう1人の学長。その学長である私が、“大学の学生”ら30人を率いて夏休みに山陰方面に落語の公演旅行に出かけた時の話です。

 大阪を発って鳥取県の米子を経て境港へ。そこから船に乗って隠岐の島。それから松江、そして鳥取砂丘を見物して帰るというコースです。それが私には初めての旅らしい旅でした。道中はとにかく長かった。確か昭和39年。夕方に列車に乗って朝方に境港。なにしろ延々と列車に揺られていた記憶があります。

 その車中で、ある母娘と出会いました。とても綺麗な娘さんで歳の頃は20そこそこ。隣の席で、親子の会話をそれとなく聞いていると、娘さんは日本舞踊の舞子さんのようで大阪かどこかの舞台で踊っておられたようでした。すると母親のほうが不意に私に「学生さん?」と話しかけ、身内話をしたんです。「ずっとやってても、なかなかうまいこといけへんから故郷に帰りますねん」と。

 娘さんは恥ずかしそうに俯いてられたのですが、夢破れてちょっと寂しそうな姿がとても綺麗に思えました。親しくなって母親が私ら全員にカニ寿司の弁当を振る舞ってくださり、いろいろな話を交わしたのですが、内容は忘れてしまいました。ただ私は娘さんが気になって気になって。ちょうど川端康成先生の『伊豆の踊子』と同じです。学生の「私」と「踊子の薫」。旅の道中で出会った踊子との淡い想いに、身体の芯が熱くなるようでした。

 母娘は途中、山陰地方のどこかの駅で降りられたのですが、別れ際に娘さんに勇気を出して告げました。「隠岐の帰りに松江に行きます。会ってくれませんか」と。2人で会う約束をし、松江で再会してバスに乗って、場所は忘れましたが、どこかへ出かけました。娘さんのほうの思いは分かりませんが筋書きはまったく伊豆の踊子です。

 それっきり、たった一度のデートでしたが、私が芸能界に入ってずいぶん経ってからテレビの番組で再会したのです。名前も住所も何も分からないのに、よく捜し出してくださったものだと驚きでしたが、その妙齢だったはずの娘さんとお会いすることが出来たのです。松江近くの町に住んでおられるようでしたが、私はお会いしてもまったくお顔を思い出せませんでした。

 ただ、その娘さんは、テレビを観ていて、あの時に列車に乗り合わせ、松江でデートした学生さんだとはっきり覚えてくださっていたのです。『伊豆の踊子』に重ねて胸を熱くした青春時代の旅の大切な思い出です。

 今では、数限りなく全国各地を訪ねています。落語の公演、テレビの仕事。いずれも旅というよりほとんど移動と呼ぶべきですが、北海道や沖縄以外はできるだけ鉄道を利用するようにしています。とりわけ新幹線派です。しかもマネジャーには必ずシートは「CとD」を取ってもらうようにしています。

 新幹線の時間が私にはちょうどほどよいのです。車窓の景色を楽しんだ後は眠る、起きるとネタの練習をしたり新しいネタを考えたりする。そのいずれにもほどほどに使える時間なのです。親しい先輩に、弁当を買い込んで、必ず「こだま」に乗って道中そのものを楽しむ方もいらっしゃいますが、私にはその芸当はできません。私は西に行くにも東に向かうにもだんぜん「のぞみ」、「みずほ、さくら」がいい。

 ちなみに、列車の車中や駅ホームでの人間観察は落語の枕にたびたび使わせてもらっています。

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