間人港を取り囲むように海岸段丘の上に家々が密集している。江戸時代には北前船の寄港地として丹後半島の物流の中心として賑わった町は「間人千軒」とも呼ばれた。

特集 丹後半島 間人

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豊饒の海と生きる奥丹後の漁師町

 奥丹後の『間人[たいざ]』を訪れた日は奇妙な天候だった。灰色の空が海を覆い、横なぐりの雨が視界を遮る。ゴウゴウと風は唸り、白く砕けた波が飛沫となり港の防波堤を軽々と越えた。すると突然、黒々とした雲間から陽が射し込み、一転、海は鮮やかに光り輝いた。天候は一日中、目まぐるしく変わった。

 漁港で待ち合わせた佐々木茂さんは、会うなり「ウラニシや」と苦笑いした。冬から春先にかけて日本海から北西の突風が吹き、急に天気が崩れる丹後地方特有の空模様がウラニシだ。「今日の漁はあかんな」。佐々木さんは、小型底引き網船「海運丸」の船主で、幻と呼ばれる「間人ガニ」の漁師でもある。ズワイガニの漁期は11月から翌年3月まで、春から秋は主にカレイやエビなどを獲る。

 すぐ前の海は日本海沿岸でも屈指の好漁場だ。『竹野[たかの]』川上流のブナ林が栄養をもたらす海域には、100種を超える魚介類が生息する。特に沖合約30キロメートル、水深230〜300メートルの泥砂の海底はズワイガニの絶好の産卵場所だ。けれど、地元で「モヤ(網)船」と呼ばれる小型底引き網船は、大型船と違って時化が続くと何日も出漁できない。

間人の夕景。男性的な景観と女性的な景観が交互に見られる奥丹後の海岸線。中央にある大きな奇岩が立岩で、聖徳太子の異母弟の麻呂古王(まろこおう)が鬼を退治して岩に閉じ込めたという伝説が残る。

間人の競りは朝の8時と昼の2時の2回行われる。間人沖の豊かな海で漁獲された魚介類は水揚げされてすぐに競りにかけられる。この日の朝の競りは前日の時化の影響で水揚げも少なかった。

昔から、仲買人には女性も少なくない。現在でも10数人の女性の仲買人がいる。競りで仕入れた魚介類を今でも行商で売り歩く。

 「時化てても大型船やと沖で停泊して何日も操業できる。けど、間人の船ではそれがでけん。日帰りの漁や。そやから獲る量が限られていて、鮮度と品質は最高。そやから幻の間人ガニ」と佐々木さんは豪快に笑った。大きくて分厚いその手は見るからに漁をする逞しい手だ。

 京都府京丹後市間人。戸数約8百戸、約2千人ほどの漁業の町だが、それにしても、どうして間人を「たいざ」と読めるのか。それは聖徳太子の生母、『穴穂部間人[あなほべのはしうど]』皇后に由来する。仏教をめぐる蘇我氏、物部氏の争いから逃れて、この地に身を寄せていた皇后は、大和に帰郷するにあたり、自らの「間人」の名を与えたが、村人は高貴な名を呼び捨てにできず、この地を退座されたことに因んで「たいざ」と呼ぶようになったという伝承がその縁起だ。

 それほど歴史の古い土地である。平城京跡から出土した木簡には「竹野郡間人郷」と記され、その頃からすでに漁労に長け、海産物を都に献上していたことが分かる。室町時代には漁業が奨励され、江戸時代には北前船が寄港し、その交易で「間人千軒」といわれるほどの賑わいだった。明治末期には700人近い漁師がいて、カニやカレイ、タイにブリ、アワビ、サザエ、ワカメなどを獲った。

「海運丸」の船長、佐々木茂さん(64歳)。代々続く網元の四男で、21歳で海運丸を継いで40数年。夜中から朝にかけて漁をし、すぐに港に水揚げする「間人ガニ」の品質は最高。「昔はひと網でカニが280匹も獲れたこともある。漁獲量は年々減ってるけど、漁場を守っていかなあかん」と佐々木さんは言う。

名勝「立岩」の傍らの砂浜に立ち、沖を眺める間人皇后と幼い聖徳太子の母子像。間人の名の由来である間人皇后は、当時「大浜の里」と呼ばれたこの地に身を寄せたと伝えられている。

 しかし、時代とともに転業する漁師が相次ぐ。「ガチャマンいうて、『機[はた]』織りを1回ガチャで、万円になる。それでガチャマン。機屋になった漁師はたくさんいた」と佐々木さんは言う。小型底引き網船も今や5隻。定置網船や水視漁の船もあるが専業漁師は往時とは比較にならない。漁獲量も激減している。それでも「わしら漁師は海に出てなんぼや」と佐々木さんは呟いた。

「浜祭」
間人港では毎年春前に、その年の豊漁と漁の安全を祈願して「浜祭」の神事が行われる。漁師を中心とした伝統の儀式で、竹野神社の宮司が司る。宮司が弓で三本の矢を北、西、東の三方向に放ち、最も遠くへ飛んだ方向がその年の好漁場となる。また、湯を沸かした釜に色々な漁種を表す三色の色紙を入れ、藁の束でかき回してそれで漁師たちをお祓いする。その藁をそれぞれの船に祀るという。竹野神社は「延喜式」で大社と記される格式の古社で、「古事記」「日本書紀」にも登場する。現在の宮司は59代。

 漁港ではその年の豊漁と航海の安全を祈願する伝統神事「浜祭」も終え、「そろそろウラニシも終わりや」と、佐々木さんの表情がほころんだ。「百度打ち[ひゃくどうち]」は、男衆が相撲の化粧回しをつけて裸で間人の町を駆け抜ける。江戸時代から続く豊漁と五穀豊穣、無病息災を祈る漁師町の郷土の行事だ。間人には今も漁師町の風景と風情が残っている。そんな間人に惹かれて訪れる人も少なくない。その日の宿では夜通し海鳴りが止まなかった。

「百度打ち」
豊漁と五穀豊穣、無病息災を祈願して行われる百度打ちは、江戸時代から代々受け継がれている間人の伝統行事。間人港の波打ち際で身を清め、三柱神社・稲荷神社・早尾神社に駆け詣でる。

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