津和野城跡から見下ろした津和野の町並み。城跡には郭と石垣が残っているのみ。急峻な地形で足元を蛇行して流れるのは津和野川、対岸の丸い山容が青野山。赤い屋根瓦が周囲の緑に映えて鮮やかだ。

特集 石見 津和野

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無数の鯉が群れ泳ぐ山峡の城下町

 ♪ 城跡から見下せば 蒼く細い河 橋のたもとに 造り酒屋のレンガ煙突〜山の麓 煙吐いて列車が走る ♪。

 さだまさしさん作詞作曲の「案山子」の一節だ。さださんは、津和野城跡から見た風景をイメージしてこの歌詞を書いたようだ。切り立った山上の津和野城跡に立つと、歌詞どおりの箱庭のような町が見下ろせる。鉢を伏せたような青野山を正面に山壁が東西に迫り、南北の狭い谷の間をS字を描いて津和野川が蛇行する。山の斜面の段々畑、赤い瓦屋根を連ねた風景は絵本でも見ているようだ。

 昭和50年代、山峡の静かな小盆地に年間150万人以上もの観光客が全国から押し寄せた。「ディスカバージャパンブームの当時は町が人と自転車であふれていたそうです」。津和野町教育委員会の宮田健一さんはブームを知らないが、現在でも「観光客数は年間約85万人」と話す。繰り返し映画やテレビドラマの舞台にもなる。小さな町のどこが人を引きつけるのだろう。

津和野川の清流には大きな鯉やウグイが泳ぐ。津和野大橋の背後に見える、城山の山上にわずかに見えるのが津和野城跡の石垣。

津和野では鯉は家族のように扱われる。由来は坂崎直盛が兵糧のために鯉を養殖したという説があるが、今日のような「鯉が泳ぐ町」は、1934(昭和9)年に民俗学者の宮本常一氏の薦めで町内の篤志家が放流したのが始まりだそうだ。

 城の歴史は鎌倉時代に遡る。2度の元寇の後、来襲に備えて御家人の吉見頼行が能登国から赴任し、地名の由来である「つわぶきの生い茂る野」の山の上に土塁を築いた。ずっと後の関ヶ原の戦い後、坂崎直盛が城主となり、より堅固な山城に仕立て、新田を開墾し鯉を養殖、楮[こうぞ]の栽培や和紙づくりを奨励したといわれる。が、宮田さんによれば「名君で町の恩人ですが、記録上不明なことが多い」のだそうだ。

 「津和野のお殿様といえばやはり亀井のお殿様です。江戸期を通じて4万5千石の小藩を15万石に匹敵する藩に育てた歴代藩主、亀井家11代の功績です」と宮田さん。穏やかな治世は領民に親しまれ、なにより産業の開発と振興で城下の暮らしを豊かにした。とりわけ熱心だったのは教育で、8代矩賢[のりかた]侯は藩校「養老館」を設け、11代茲監[これみ]侯は思い切った機構改革を行い、「武」よりも「文」を培うことに力を注いだ。

殿町通り
城下町の面影を色濃く残す殿町通りの佇まい。津和野一番の名所で観光客が絶えないが、早朝、午後遅くには静けさを取り戻す。右手の建物が藩校だった養老館。

 そんな津和野の藩風は、明治維新後の日本の近代化を担う偉人を輩出した。哲学や倫理学、感性など概念的な新しい日本語を次々生み出した西周[にしあまね]、西の縁戚の森鴎外も養老館に学んだ一人だ。その養老館は町の中心の殿町通りにある。掘割に群れ泳ぐ鯉とともに津和野を代表する佇まいである。武家屋敷や白壁に赤い瓦屋根の豪奢な商家が並ぶ界隈は端正な佇まいで、塵一つない。夕暮れには往来も絶え、時折、掘割の鯉がはねる水音がする。

 通りを掃除する男性に声を掛けた。「子供が鯉にいたずらすることはありませんか?」、「ありません」。そしてこう続けた。「この町では、小さい頃から教わることが2つあります。郷土の偉人と鯉を大切にすることです」。町の観光パンフレットに「史蹟と鯉の町」と書いてあるが、それだけでなく、つつましい町の佇まいと人々の行儀良さに触れて、人は何かしらの郷愁を感じるのでないだろうか。津和野では、失われつつある日本の古き良き風景と気風が今も残っている。

藩校養老館
養老館の御門。西周や森鴎外も学び、多くの郷土の偉人を生んだ。一部は現在、民俗資料館になっている。

西 周
日本の近代哲学の祖で、日本の近代化に多大な功績を残した。哲学に限らず、憲法、国防、教育の分野でも大きく貢献した。 家は津和野川河畔にあり、川を挟んで縁戚の森鴎外の生家がある。(津和野町郷土館蔵)

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